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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

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アメリ 映画レビュー50選(11)

監督:ジャン=ピエール・ジュネ
 8歳のアメリ(フローラ・ギエ)か、かっ可愛い!!
 小さな頃の独り遊びを、こんなに沢山、そしてこんなに身近な視線で見せられたのは初めて、、、。
 もうこれだけで充分満足、、。
 これって、日本の女の子達・女達にドキューンの要素を余す所無く備えた映画。
 映画マニアじゃない女の子だって、DVDで揃えたい一本になるんじゃないかしら。
 でもジャン=ピエール・ジュネ監督は日本の女の子のツボをリサーチしてこの映画を作った訳じゃないと思うよ。
 だってあのエイリアン4とかデリカテッセンを思い出して見てよ。
 それによく考えたら「対人障害」の女の子の恋愛物語だよ。
 おまけに内向的で空想癖があるなんて、、日本ではオタク女は顔がイケてないと、どんなに迫害されるやら、、で、迫害する方のフツーの女の子達が、アメリみて夢見るのは何故?
 でも、あれだよなぁ、美味いケーキはどうやったって、誰が喰ってもうめーモンな。
 畜生ー。フランス野郎のセンスには負けるわ。
 なんにもいう事ねぇっす。 「不当な干渉だ! ヒトは人生に失敗する権利がある」だとー、、思わず賛成!!と叫んじまったぜぃ。
 というわけでchikaの中では二つの人格が分裂しております。
 第一の人格は、「アメリ(オドレイ・トトゥ)の足首と靴と靴下がとても可愛い」「あんなヘヤースタイルが私も似合ったらいいのに」「今日から私の好物はクレーム・ブリュレよ」と言っております。
 で第二の人格は、アメリなんてミスター・ビーンと同じじゃねえかと呻いております。
 だけどこの二人のchikaがこぞって認めるのがジャン=ピエール・ジュネ監督の、征露丸を砂糖でくるんじゃう征露丸糖衣の技法です。
 それぞれの個人の好きなものと嫌いなものを並べながら紹介されちゃうと、「あるあるそれ」って誰しも思うわけで、もうこの時点で、よく見るとかなり危ない人たちが十年の知己のように思え、彼らに対する愛着が瞬間的に湧いちゃうわけですね。
 するとアメリが小細工をしまくって、彼らを幸せにしようとする努力がこれまた効いてくるわけで、、。
 結局、冒頭に書いたけれどジャン=ピエール・ジュネ監督の映画を編んでゆく感覚が、狂気もやさしさも全て含んで、映画を見る者の肌へ息のかかる距離にあるって事でしょうね。
 それに勿論、あのアニメ感覚。

 あまり他の映画評論ではこの事に触れられていないように思うんだけど、ジャン=ピエール・ジュネ監督のエイリアン4が一番「エイリアン」自体を綺麗な生き物として表現していたと思うの。
(エイリアン4のそれは、ギーガーのエイリアンからは最も遠い存在だったけれど、ギーガーのグロテスク美とジャン=ピエール・ジュネのグロテスク美とは少し質が少し違ってたって事の証だろうな。)
 アメリの中でも置物や人形が喋るシーンがなんどもでて来るんだけれど、これらのキャラ、一見ファンタジックで可愛く見えるようで、ルーツはエイリアンの「美」と共通するものがあるよね。
 可愛い癖に何処か切れる様な怖さがある。
 こういう感覚って一旦バランスが崩れてしまうとどうしようもなくグロになるか屑になっちゃうのよね。
 その辺は香水の調合と凄くよくにてるかも知れない。
 で、アメリにおける監督評のまとめ。
  ジャン=ピエール・ジュネ監督のアメリはよく調合された「香水」である。

  PS お化け屋敷で髑髏の仮面を被ったニノ・カンカンポワ(マチュー・カソヴィッツ)が背後からアメリを脅すシーン、すっごくエロチックだったねぇ、、。
 あの時はアメリと一緒にchikaの腰も萌えちゃったよ。さりげエロ。
やっぱフランス映画だわ。


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ファイト・クラブ 映画レビュー50選(10)

監督:デイビッド・フィンチャー
 chikaは、この作品を映画ではなくビデオで観た。
 当時はもの凄い回転率で、借り出すまで数日かかった。
 、、で、見終わった後の素朴な疑問。
 このビデオ「みんなにどう評価されるんだろう?」って事だ。
 特に、ブラピ人気で、あるいはTVでオンエヤーされたかっこいいCMに引っ張られてこの映画を見た人々の反応が知りたい。
 この作品は、感動巨編でも、見終わってスカっとするアクションものでもないのだから、、。
 私の場合は「ファイトクラブって喧嘩クラブの事?そんな設定で、どんな風にストーリーを膨らませるのかしら?どうせ寸詰まりの作品よ」というのが、ファイト・クラブを見る前の思いこみだった。
 実際がた、作品も見ても前半は、主人公の一人語りを中心にして現代の文明批判みたいなスタンスで、彼らを取り巻く日常生活を面々と描写し続けて行ってたし(ブラッド・ピット扮するタイラー・ダーデンは現代文明のマッチョな告発者の役割で、正体不明のやんちゃ坊主という感じ)、、。
 所が、物語も後半になって、「えっえー。そんな風に繋げちゃうわけー?」(結末が冒頭に繋がる構成の映画は結構あって、これもそうなんだから、映画後半の捻れは後から付け足した訳じゃないんだろうけど、、。)という展開になる。
 ここがツイストしてる訳。
 違和感を感じるほど、タイラーとジャックの関係の扱いが荒っぽい。
 これは意図的なのかなとも思うのだけれど、、。
 タイラーにブラピを持ってきた時点で、エドワード・ノートンのジャックに「片割れ」にタイラーをだぶらせるなんて無茶な事は目に見えている筈だから。
 ラストのヘレナ・ボナム・カーターのマーラと、ジャックが仲良く手をつなぎあって、爆破されるビル群を眺めているショットがとてもシュールでチャーミングに見えたのも、この「作為的倒錯人物配置」のお陰なんだろうけれどね、、。
 もしかしたら、この映画は凄く良くできた、新世代の映画なのかも、知れない。
 「マトリックス」が最新技術を駆使した古典的な映画なら、この映画はキャスティングの落差で発電するエンジンを持った実験的映画といえるかも知れないね。
 話は変わって、タイラーの主張は同感。
 でもファイトクラブは願い下げ、だって痛いのはいやだもん。
 それに自分を確かめる方法があれしかないなら、女性はどうすんのよ?
 女性の場合はS○X?。
 おふざけ~。死だとか暴力だとかを語る前に、ジェンダーの事を勉強した方がいいね。


 



夏至 映画レビュー50選(9)

原題:a la verticale de l'ete
監督:トラン・アン・ユン
 chikaが一番行きたい「海外」がベトナム。中でも古都ハノイ。
 勿論文学ミーハーなchikaは田口ランディあたりの旅行紀行文に毒されているし、身近な女の子達の「ベトナムいいよ~。」の言葉にも煽られての話なんだけど。
 そんなchikaが先日、元ちはるのCDを買いに行ったついでに目に留めたのがこの作品、タイ映画の「69」を見ているので、内容には期待せず、観光映画代わりになればいいやって感じでレンタルしたんだけれど、、。
 トラン・アン・ユン監督って注目株の人だったんですね。    chikaって無学です、、。
 映像の綺麗なこと、綺麗なこと。
 ため息がでますよ。chika絶対保証します。
 それに静謐さの中に立ちこめるむせ返るような官能の匂い。凄くいい、、。
 クレジットを調べていくと撮影が『花様年華』のリー・ピンビン。
 『花様年華』が室内や夜の町を美しさを中心にしてたから、この作品の「真夏の陽光と水とグリーン」に結びつかなかったんだけれど、、今となっては深く納得。
 彼を“アジア人の肌を美しく撮ることが出来る”人という理由で起用したとのことだけれど、これも激しく同意いたします、、。
 「肌」も勿論だけれどここに登場する三姉妹の黒髪の美しい事と言ったら夢のよう、、「茶髪」なんて、こんな美しさのエントリー権放棄してホント、私たちって馬鹿だと思う。
 それとも、かなわないから放棄したのかなぁ、、。確かに彼女たちって(鴉の濡れ羽色)をしてるのに、ちっとも「重い」感じがしない。取り立てて小顔って訳でもないのにね。結局女性としての「たたずまい」の問題なんだよね。   「たたずまい」という言葉の中で思い出したんだけど、この映画の主なエピソードは単純に言って夫婦間にある「不倫」なんですよね。
 でもそれが話の展開として、悲劇的な大破滅に向かって行くわけでも、感動的な再生の結末を迎えるわけでもないんです。
 ベトナムでは夫婦は決して子供の前で喧嘩しないという教育がされていて(かっての日本だってそうだった筈)夫婦の醜い争いを見せないようにする「気使い」が残っているとの事。
 それは単純に言えば「物事を荒立てない」という事なんだけれど、今の私たちって、そういった事を軽視しすぎているなってこの映画を見て強く思った。
 他人同士の関係だったら事なかれ主義だし、総てに「まぁまぁ」って感じなのに、「夫婦、家族」になると何故か「我慢」しないんだよね。
 そんなに荒立てて抉り込むようにして相手を暴いた所でなんにも残らないのに、そうするのが現代的って感じのノリだもんね。
 結婚を一種の契約とする西洋的な考え方が強くなってきているのかな。
 「夫を立てて献身的な愛」なんて言おうものなら張り倒されそう。
 まあ、この作品で描かれているのはそれとは少し違う男と女の「愛」なんだけれどね。
 物語の立ち上がりは、三姉妹の母親の命日の酒宴で明かされた母の秘めた初恋の話から始まります。
 愛し愛されて続けていた貞節な理想の夫婦像を両親に見ていた三姉妹は、母が父以外の男性に抱いていたという恋心に戸惑いを覚えていくんですが、それはやがて彼女たちの実生活と重なりはじめ、、。
 そんな感じの話なんです。
 でもこの物語は大した修羅場も起こらず、この母親から一ヶ月遅れで死んだ父親の命日の準備に出かける末娘の姿でその幕を閉じます。
 映画のテーマとしての答えは、この映画のはじめ辺りで、三姉妹が母親の初恋の事を詮索するのはよそうと決めた時に既に出されているようです。
 でも映画は、そんな結論に反して長女の不倫(壁に残った女の素足の足形の描写は凄くエロチック、W字に大股開いてパンパングジュグジュっていう撮影しなくて、充分なんだよね。凄い。)や、なにやら暗示的な三女の実兄との疑似恋愛を、どんどん描写していくわけ。
 すごく大乗仏教的というのか、、う~ん、、良いわトラン・アン・ユン。

PS これは一部の隙もない凄い映画かなって思ってるんだけど、一カ所だけズッコケル部分があるのよね。
 それは三女がコイビトとのセックスの二週間目に「妊娠しちゃった。
 私未婚の母になる自信あるわよ。」と、上の姉たちに打ち明ける場面。
 上の二組の夫婦の危機をかなりドロドロと描き込んで来たあとだけに、こんな三女のネンネ振りが絡むシーンが許されていいのかって感じ。
 でもこのシーンのお陰でこの映画は振り出しのほのぼのとしたトーンに戻れるわけで、余計なシーンでもないのよね。
 うーん、、ベトナム女性の性意識ってこんななのかなぁ、、。
 確かに三姉妹が料理に使う鳥の肌の表面を整えているシーン(凄く綺麗なカットだよ、それに官能的)での会話だとかを聞いていると、一端貞操を開いた男性に対するセックスはかなり深いけれど、そこに行き着くまでは、まだまだ強い道徳観(?)が働いているみたいに思えるし、、。













御法度 映画レビュー50選(8)

 御法度、、、。  なんと言ってもあの大島渚監督作品なのである。
 たまたまTVで、映画「御法度」撮影風景のレポートがあり大島監督を見た。
 脚を引きずっていた、、もう老人の身体だ。
 当たり前だけど、、人は老いる。表現者であっても老いる。
 枯れることによって美しさが増す「表現」もある。けれどそうでない「表現」も確かにある。
 体力そのものとは言わないけれど、一種の肉体的なエネルギーを不可欠とする「表現」が。
 ホモセクシュアルのテーマは、「表現」として、モラルの問題を越えて、難しいものを内包していると思う。

 「御法度」は、幕末の京都で市中警護の任務に当たった新選組の内部が舞台。
 大島監督は、こういった精神的に閉じられた設定がお好みのようだ。
 「御法度」と呼ばれる鉄の規律で自縛された男たちの集団が、1人の美少年の入隊によって揺らいでいく。
 映画の中には歴史小説に登場するような新選組の活躍も、幕末の混乱した世相もほとんどでてこない。
 人斬りを仕事とする新選組の男たちが、同性愛のエロティシズムに身をゆだね、焦げ臭い匂いを放ちながら、狂い、嫉妬と疑心暗鬼に囚われる。
 この作品、屋敷や道場などの舞台装置装飾にも凝っているらしいが、門外漢のchikaには、そのあたりの「値打ち」はピンとこない。
 ただ映画の終盤の、「河原」は確かに効果的だったと思う。
 濃密な霧は、演劇の舞台装置ではスモークやドライアイスのお世話になるが、そのいかがわしさを、わざわざ今回、映画に持ち込んだのは、この映画をより昇華させるに当たって実に効果的だったと思う。
 あの場面が、あったから、桜の木を切ったビートたけしの所作が歌舞伎の「みえをきる」ように決まった。
 それと「御法度」のたけしは、どことなく今までの映画俳優「たけし」と違ったような気がする。
 土方の独白という形で映画が進む関係上、「たけし」は内面を語らざるを得ない。
 これは、今までの、「寡黙さ」のスタイルをもって、内なる狂気や純朴を見せた俳優「ビートたけし」のつくりではない。けれど、このたけしも、危なげなく観れたと思う。

 勿論、加納惣三郎を演じた松田龍平についても語らねばならない。
 前宣伝では龍平が飛び抜けた美少年であるかのように煽られているが、美形ぶりでは同年代の少年で、いくらでも彼を上回る者が数多くいるに違いない。
 松田龍平が、照明や撮影角度で少女のような美貌に見える事もあるが、彼のベースはどちらかというと骨太の男ぽい顔立ちだろう。
 それがどんどんエロチックになって行く。
 (上映中、角度によって彼の父親の面影と母親のそれが交錯して見えるのも、とてもドキドキさせられる体験だが。)
 夜道で監察の山崎蒸を誘惑するあたり、龍平扮する加納惣三郎は女を詰め込んだ男になっていた。
 考えてみると「御法度」が本道の「ゲイムービー」なら龍平はミスキャストであったろうし、日本古来の土壌にある「衆道」だからこそ、年若き龍平がはまったのかも知れない。
 そして、勿論、この松田龍平を加納惣三郎に当てた大島渚の慧眼と、監督力は言うまでもない。
 大島渚は、、「制度の中のエロス」をまだ撮れる。
 大島渚は、この時点ではまだまだ枯れてはいない。

PS 映画監督の大島渚(78)が脳出血で倒れたのは1996年2月。
 一時は快方に向かったが、8年前、再度倒れて、楽観は許されなくなった。
 以来、妻である女優・小山明子さんの介護を得て闘病中。



ぼくのバラ色の人生 映画レビュー50選(7)

ぼくのバラ色の人生
ma vie en Rose

監督:アラン・ベルリネール

  映画冒頭シーン、「女性のドレスのジッパーを上げる、上げる。嗅ぐ、キッスする、履く、飾る」が繰り返し映し出される。人生の中の日常的な様々な楽しみ。
 渾然としているけれどそんな細々した楽しみにさえ「男」や「女」の役割がある。
 時々、それが捻れたり、反転したり、昇華すると文化や芸術のレベルになる場合があると思えば、フェチという個人領域になったりもする。
 人が貨幣によってより社会的な人と人の関係を構築したように、ジェンダーに付随する人の行動様式も又、個人をより個人たらしめる感覚的役割を果たす。
 監督のアラン・ベルリネールという人は、そういう感覚(知覚)を人よりも強く持っているのだろう。
 恐らくこの映画の冒頭で、送られて来る信号はそういったジェンダーに関するものだ。
 その信号を受けてある人は「豊かな生活」の匂いを、ある人は「エロチックな感情」を、ある人は「これから起こる、甘美だけれど逃げられない惨劇」を予測する。
 引っ越して来た少年リュドヴィック(7歳)とジェローム少年との出会い。
 リュドヴィック少年の「女の子になったら結婚するの。」という言葉に、まだ彼がジェンダーを確定していない(されていない)年代にいる事と、すでに彼の内部では彼の「本質」が顕在化する事が集約されている。
 映画は始めファンタジー仕立てで、後はジェンダーの問題にどんどん傾斜していく。
「男か女かは神様が決める。僕の場合はX(染色体)が落ちちゃたんだよ。」という幼い言葉に「アンタは家族を破滅させるつもり」と口走らざるを得ない彼の母親。
 ゲイ・レズ、ホモセクシュアルに関する理解は、一般的に高まっているという幻想があるけれど、国や地域のそれぞれの温度差を差し引いても、それは幻想だろうと思う。
 個人はそのことを理解しても、「社会」はそれを理解しない(迫害する)事で成り立っているのだから。
 この映画、一気にそういった絶望的状況まで描写しないで、途中で何度か「息抜き」をさせてくれるのは、監督の粋な計らいというものだろうか。
 (そういえば、おばあちゃん役のエレーヌ・ヴァンサンは安全弁の役割なんだろうね。最後にリュドヴィック少年を反転させたような少女を、引っ越し先の隣家に配置するのはちょっとやりすぎだと思うけど、、そこまでしないとバランスが取れない現実の「重さ」があるって事なのかも。)
 映画の結末は「男の子の服を着るよ」と言うリュドヴィックに、「お前の好きに」と答え、「私たちの大事な息子」と抱きしめる両親で括られている。
 又、監督は映画の中で、リュドヴィックが通うことになった精神科医には「あなたが大人になったら、あなたが思っている事を周りの人々に判るように喋れるようになるわ。」とさり気なく語らせている。
 さぁ、、どうなんだろう。大人になったリュドヴィック少年はそんな「言葉」を持てただろうか。
『マ・ヴィ・アン・ローズ』人生はバラ色、、、、、。

追記
 ホント、久しぶりに真顔で語らなくちゃ、という気分で記事を書く。
 この映画、沢山の人々に見て欲しいと思う。特にこういった問題に「共感する側」の立場ではない人々にだ。
 リュドヴィック坊やを抱えた、お父さん。お母さん。家族、隣人たちに。
 この映画が提起するものを、安っぽいヒューマニズムと切り捨てないで欲しい。
 せめて「しょうがない奴」程度でもいい。
 違いを認める事をしてやって欲しい。迷惑だ。汚れる。不潔。とか勝手な思いこみはやめて欲しい。

 「私たちがどんな悪いことをしたの。」
 「そういうあんたらはどの程度の人間なんだ。」
 「人数が多いという事であんたらの優位性は保たれているに過ぎない。」と、そんな風にこの映画は声を荒げている訳ではない。
 むしろ複雑すぎる価値観が混じり込む事のない少年時代の頑固さをかりて、我々の中にある性を巡ってのすったもんだを描いているのだ。
 だからこその説得力が有る。
 chikaは、男が女を愛せない事、女が男を愛せない事は、生物学上では逸脱している事だと思っている。
 それは「歪」なのだ。
 でも、もう人間は、そんな単純な「生物学上の生き物」でいられる時代をとっくの昔に失っている。
 私たちは「エデンの園」から追放されて久しいのだから、この地で追放された者として上手く生きていく術を見つけ、それをお互いに分かち合う方が大事なのだ。
 

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