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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

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見なくても死ねる(1) 「女子高生チェーンソー」


 今日ご紹介するのは「女子高生チェーンソー」。
 「悪魔のいけにえ」を約30年ぶりにリメイクして全米大ヒットを記録した「テキサスチェーンソー」にあやかった映画なんだそうだ。  「チアガール忍者」、「女子高生ロボット戦争」などの女子高生三部作シリーズ(!)と呼ばれている作品の第1弾。
 ちなみに「女子高生ロボット戦争」は、かなりましだったような気がするんだけど、どんな内容だったか、全然覚えていない(笑)。
 そういった状況下で制作された、普通の映画レビューには到底取り上げられない脱力系B級映画が本作品。
 基本的にchikaにはB級映画を有り難がって観る趣味はまったくないんだけど、この「屑映画」ぶりに一度でも触れたら、、何かしなければといたたまれなくなるのが不思議。
 ちなみにクレジットを見てみよう。
■監督:ジョン・ホフマン
■出演:ブリタニー・モンゴメリー/ターラ・トンプソン/アンナ・ガルシア・ウィリアムス/ドリュー・ドロエグ/マイケル・マコノヒー
 ええ根性してます。このキャストネーミング、映画タイトルよりこっちのふざけ具合の方が似合ってます。
 こんな映画を取り扱うのは、一重に無名女優さんたちの女子高校生ぶりが愛しいというか、エロフェロモンの濃霧状態が心地良いからなんですね。
 (そのフェロモンの正体って、時々、高校時代の制服を引っ張り出してきては、それを着ちゃったりする若奥さんがいるけどあんな感じ)
 勿論この濃霧を吸い込み続ける為には、お馬鹿過ぎて付いていくのに疲れてしまうストーリーにつき合わなければならないんだけどね。
 淑女教育を理想とするバーデンが校長を勤める某女子高校に在籍するゆるゆる生徒8人が男子校とのダンスパーティーに向かうんだけど、その途中で車がエンスト、ちょっと危ない感じのお兄さんに助けてもらったと思いきや、何故か砂漠の真ん中(?)のスクラップ工場に連れていかれ一人一人、又一人と惨殺されるというストーリーというより「なりゆき」なんですが。
 でも最後のどんでん返しには萌えますよー。
 殺戮ゲームの最後にはパーカー、転校生のモニーク、ハンクの三人が残るんですが、突然、一番主人公ぽいモニークが変装名人の怪人二十面相よろしく、メリメリメリと顔を剥ぎだすんです。
 ゆるゆるのエロ女子高校生グループに、突然割り込んできたミステリアスでいけてる転校生モニークの本当の姿は、実はチビでおデブの禿頭校長だったというやつね。
(このどんでん返しはホントに想像も付きません、あはは、ここでネタばれしちゃったから想像ついちゃうけど)
 とにかく最後はこの校長によるモニークの「変装用顔面マスク」引き剥がしシーンになだれこんでいくんだけど、この驚愕の場面にしても「おいおいそれは無茶だろー」って感じ。
 まず等身、つまり骨格がまるで違う、これをフィルムの切り張りで無理矢理、変装解除シーンとして成立させる力技が、見る者にして妙にシュールな気分にさせられるんです。
 それに何故、この校長が超絶変身を果たしてまで、ゆるゆる女子高生達を殺して行かなければならなかったのかその動機が不明。
 貞淑を売りにしたい自分の高校にこういうエロ姉ちゃん達が在校する事が許せなかったとしても、なんでその女子高生に変身して彼女たちの中に潜り込む必要があったのか?
 どう考えても、発想的には女性の裸が見たかったから女装して女風呂に忍び込む変態さんの行動パターンなんだけど。
 それに後に残ったチビデブハゲ校長のミニスカ姿が妙に生々しいというか、、、うー、、似合わない女装マゾ君虐める、お仕事、思い出しちゃったよ。



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ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ 映画レビュー50選(6)

 性転換の手術に失敗した主人公の歌う歌詞が「アレの長さが6インチから5インチ減って残りは怒りの1インチ」、、、こうやって文章にするだけでも監督・脚本・出演すべてをこなしたジョン・キャメロン・ミッチェルの才能がわかる。
 演劇や映画の脚本に、人間の完全体であったとされる雌雄同体的イメージ、「つまり(男・男)(女・女)(男・女)がゼウスによって二つに引き裂かれて現在の愛が始まった。」とするテーマを引っ張って来る事は、そう珍しい事じゃない。
 けれどそこから畳みかけるように「これ以上、神によって引き裂かれたら、目が一つ、腕が一本、脚が一本で生きなくちゃならない。(僕)を否定すれば、僕は破滅する。」って言葉を凄い勢いで打ち出してくる所がこの人の才能なのだろう。
 映像的には驚くような斬新さはないにせよ、充分に美術的な空間を銀幕に作り出せる能力をもった人のようだ。
 しかしそれを全面に出さずに、あくまで映像を、ミュージカルと物語の進行に絡めていく姿勢を見せるのはこの監督が舞台人だからだろうか。
 勿論、その姿勢はこの映画において大きく成功している。
 ただ、主人公ヘドウィグのかりそめの夫イツハクを演じるミリアム・ショアが本物の女性であることが微妙な「ずれ」となって映画の最後に現れていたような気がする。
 chikaは最初、このイツハクが「男になりたい女」なのだと思っていた。
 それにしてはイツハクが隠れてヘドウィグのウィッグを被りたそうにしているシーンなどが矛盾しているなと、、。  正式なところで言うと、脚本上でイツハクは、潜在的に女装者にあこがれている男性という設定らしい。
 それでも最後にイツハクがヘドウィッグと袂を分けようとする時「もう疲れたんだよ。お前も本当は疲れているんだろう。」という台詞をヘドウィッグに吐くシーンがあるのだが、これなどは「私はもう男の格好(生き方)をしているのに疲れた。お前も女の格好じゃ疲れるだろう。」と読み替える方がスムースのように思える。
(実際、その台詞の後にひげ面のイツハクが、グラマナスな美女に変身するシーンがある。これなど念願の夢が叶って女装美人になったというよりも、イツハクが女性に回帰したら実はこんなに綺麗だったという感じに見える。)
 その他、少年時代のヘドウィグ(ハンセル)が父親に犯された事、青年期の女装とホモセクシュアルの関連が曖昧な事、母親が自ら進んで東ドイツに移り住んだのに、息子のハンセルがドイツから脱出する為に性転換手術を必要とした時、病院を紹介してやったりと、よく考えると説明不足の部分がたくさんある。
 勿論、映画の方はそれらを含んでも、充分に面白い。
 東西の冷戦や「性」にまつわる興味深い色々なエピソードを全て、おおまかな部分で辻褄が合えばいいやと言う感じで、ヘドウィグという人物を通じて書き出していく手法が爽快だ。
 この手法が観客に受け入れられるのは、それらの各エピソードに共通する監督の「ストレートな想い」が巧く伝わってくるからだろう。
 つまりその共通項とは「ロック」な「愛の起源」を求める心。
 しかしまあコーカソイド系の顔立ちって女装にホントに映えるのねぇ。
 それにハリウッドというか、向こうのショウビジネス世界のメーキャップ技術って、ため息がでるほど凄い。
 青年時代のヘドウィグってまだいかにも女装者っていう感じなんだけど、トミー(主人公の失われたカタワレ)と出会う頃の彼は、体型は別にしてほとんど「綺麗」といっても良いくらいなんだから。
 で土台は青年時代の彼と同じな訳で、、つまりメイクアップ技術だけで、意識的に「綺麗」の年代進化グラデーションを作り出せるということなんだね。(羨ましい、、。)
 でも、ヘドウィッグが自分のステージを隠れてみているトミーに顔の汗を拭いたハンドタオルを投げ渡すシーンには思わず苦笑しちゃった。
 だってハンドタオルにヘドウィックの顔が厚塗りしたファンデ・口紅、マスカラで転写されているんだもの。
 この辺のジョーク感覚がオカマというかドラァグクィーンのりなんだよね。
 同じように「今日も鬘を被ってメイクアップ・ルンルン」っていう歌も楽しいよ。
、、、でも「やがて悲しき」なんだけどね。 、、だからこそショウビズなんだよ。

PS 映画の中で、ヘドウィック率いるバンドが演奏するときの環境映像仕立てで見せるアニメが素敵です。
 ちょっと前に日本でもイラスト界に「ヘタウマ」っていうジャンルが確定したけど、これには「ヘタウマ」よりもうちょっと素朴なアート性を感じるなあ。
 制作はエミリー・ハブリー。
 まあ考えてみればこのアニメと合うって事自体が、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」がナイスな映画だという証明だと思うけど。










さらばわが愛 覇王別姫 映画レビュー50選(5)

 『「ブエノスアイレス」のレスリー・チャンより「さらばわが愛 覇王別姫」の彼の方が綺麗。』という噂を聞きつけてビデオを借りて観た。
 そんな不純な動機だから、見終わってから結構「重たい」ものがあったこの作品。
 第一、わたしゃ~、京劇のピィヒャラ~ドンチャンカンが余り好きではないというか、甲高い音や声を聞いていると頭が痛くなってくる質なのだ(笑)。
 でもこんな事、書いちゃ失礼なんだろうな。
 だって人間描写・社会批判、映像美どんな角度で観てもこの作品は「立派」なんだもの。
 でも書くぞ。ノーマルタイプのレビューや頭寒足熱ならぬ股間寒頭熱評論はchikaにゃ関係ないのだ。
 まず9歳の小豆子がとっても「エロス」だった。
 京劇の養成所に投げ込まれて「イジメ」に合いそうな小豆子を庇ってやる兄貴・小石頭と小豆子の関係が、とても「温く・ぬるく」ていいんだ。
 罰を受けた小石頭が凍えそうな外庭から帰って来た時に小豆子が上着を掛けてやるシーンや、二人が半裸のまま抱き合って眠るシーンなんかは、、下手な大人のラブシーンより余程、情感が溢れてて「オンナ・オトコ」してるのだ。
 で、小豆子の3段階変身の2番目の少年時代。
 これは、彼が精神的にも肉体的にも「女形」を強制的に自覚(何という倒錯した表現)させられる重要な部分なのだけれど、chikaは観ていてちょっとしんどかった。
 (痩せぎすの坊主頭の子役の少年が引き起こすイメージが個人的記憶を刺激してちょっと辛かった)
 でも、小豆子が養成所を脱走した先で、その時代の京劇のトップスターの技を目の前にして「涙」を流すシーンは、このだらけきった時代に生きているchikaには吃驚する程、新鮮だった。
 小豆子と一緒に抜け出した子どもが「あの人はここまでなるのに何回叩かれたのだろう。何回叩かれてもいい。僕もあんなふうになりたい。」と呟いたシーン、そしてそんな彼が折角、舞い戻った養成所で外で買ったサンザシを無理矢理食べてから首を吊るシーン、この二つは強く印象に残る。
 このエピソードは、映画の中でも成長した小豆子が京劇の花形女形・程蝶衣(レスリー・チャン)となった後も重要な要素として繰り返し登場してくるんだよ。
 そして同時にその要素こそが、第二次世界大戦、文化大革命の大きな時代のうねりの中で京劇俳優の彼らが、時代に翻弄されていく姿と密接に関わっていくのだ。
 でも、それはこの映画を観られた貴方が感じられれば良いこと。chikaには特に文化大革命あたりの捉え方が、勧善懲悪じみて少し単純すぎるような気がして馴染めなかったけど。
 問題はレスリー・チャンだよね。
 確かに美しい。
 彼の虞姫の京劇メイク姿も美しいし、程蝶衣の時の男性としての彼も美しい。
 でも、この美しさは、精神的に訓練され制御された「程蝶衣」を演じたからこそ出せる「美しさ」なのだろうと思った。
 「ブエノスアイレス」との決定的な差はそこにあるんだよね。
 もっとも、日本軍に捉えられた兄弟子の段小樓(チャン・フォンイー)を救出に出かける前の娼婦・菊仙(コン・リー)と恋の鞘当てを演じるレスリー・チャンは、オンナの「いけず」を見事に演じてニヤリとさせられる俳優振りだったけど、、、。
 彼ってやっぱり地力のある俳優さんなんだろうな、、。

PS 人間の本性が次々と露見していく設定になっているこの映画の文化革命時を中心にしたラスト近くの展開は、好き嫌いが別れるみたい。
 chikaには、この映画が、ある意味で段小樓を巡って菊仙と程蝶衣が愛憎を越えて人間的な関係を構築していくプロセスを大切にした映画だと思いたい部分があるのね。
 それがこのような展開にされると「しんどく」なるのだ。
 そしてその悲劇的な展開から十数年経って、再び段小樓と程蝶衣に覇王別姫を演じさせて「時の流れが全てを解決してくれる」と思わせておきながら、、あれはちょっとないよなぁ、、。


 



「ストロベリーナイト」に登場する「エフ」への個人的考察

「衛星軌道上のボンデージガール。その絶対的孤独と断絶的快楽。」

snapchika.jpg 「グロいですよ~食事のときには読まない方がいいかも」って倶楽部の子に言われて貸してもらった本を読了。
 その子自体、倶楽部じゃ主にMやってるんだけど、結構、プレイにバリエーションがある子で、いっちゃなんだけど引いた目でみりゃ、医療系含めて相当グロなプレイもあるんだよね。
 でも本人は至って平気みたいなんだけど。
 まあ見方を変えれば、chikaのラバー好きもこの子からみたら相当ヘンだからそのこの所はおあいこ(笑)。
 その子が「グロい」ってゆーんだからどんなのかって読み始めたのが誉田哲也の「ストロベリーナイト」。

 ストロベリーナイトとゆータイトルと、文庫本のオシャレなカバー写真、それにこの本を貸してくれたイカにも今風な倶楽部の子の顔を交互に思い出して、読んだらカロリーオフのコーラみたいだと困るなぁ、と、(笑)。  
 コーラは毒水だからコーラなんであってさ。
 で「ストロベリーナイト」は、のっけからヤク中の鬼畜親が登場して児童性的虐待コースの導入、、まあ最近の刑事物だと全然珍しくないんだけど、性的虐待にスカトロが入ってくるのは珍しいちゅーかchikaはこれが苦手なのだ。

 しかもここで登場するスカトロは、汚物を身体になすり付けたり軽く飲食するようなライトなものじゃなくて暴力系、、余計に読むのが嫌なわけで、途中で止めようと思ったんだけど人から借りた本って降りられないのよね。
 「読んでどうでした?」とか聞かれちゃうとね。 「ああ、あれね、ムニャムニャ、、。」なんて、若いのに本を読んでくれる希少な後輩相手に誤魔化せないじゃない。
 結局、この冒頭の殺人鬼の独白で繰り広げられるグロシーンは、殺人鬼の親殺しと自宅放火で幕を閉じたのでなんとか乗り切ったって感じ。
 この殺人鬼は、後日「エフ」という名前で小説の主人公警視庁捜査一課警部補姫川玲子の前に再登場するんだけど、エフのコスチュームが街の浮浪老人が何処かで拾ってきたレザーのつなぎで、その武器が百円ショップで売っているどぎつい色のちゃちなカッターナイフってゆーのが、なかなかナイス。
 ちょっとネタバレぽいけどこの小説を映画化するならエフの役は堀北真希がいいって倶楽部の子が言ってたんだけど、、まあ、そんな感じ。
 でもベッドに縛り付けた女性の乳房を釘の一杯突き出たバットでなぎ払うってゆーのは堀北真希には無理かも。
 このエフ、最初は男と思わせておいて最後に実は堀北真希属性の人で更には主人公の絶体絶命の危機を救っちゃったりするドンでん返しに必然性はあったんだろうか?と小説読み終わってからも未だに腑に落ちないchikaなのだ。
 あんまりも極悪非道なヒールを作ってしまったので、作者が無意識のうちにバランスを取ってしまったのではないだろうかって今は想像してるんだけど(笑)。
 だって初めのままのエフの姿が「現実モデル」だとする小説って、書き手が悪人に見えるし(笑)。

 「ストロベリーナイト」に登場するエフは、自分自身の忌まわしい存在性を否定する為に、乳房を自ら切除しちゃうわけなんだけど、chikaからすると性同一性障害への理解より、このエフの情動の方がよく理解できちゃったりする。
 性同一性障害が、本来あるべき自分の為に、現在の肉体のありように突き当たってしまうのに対して、chikaのそれは「本来の自分の有り様を否定する為」に、肉体を改変するわけで。
 ある意味、「未来がない病」なんだよね。
(でもその代わり刹那的な快楽には恵まれるけど)
 そういった諸々を含めて、chikaにとってエフは結構、魅力的な登場人物でした。





ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ 映画レビュー50選(4)

c301d000_142.jpg  「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」が、そのまんまの音楽ドキュメンタリー映画だと気づかず、「この材料で映画が一本とれる。すごいもんだな。ヴィム・ヴェンダース。」と最初からとぼけた勘違いをしてた私。
 でもコンパイ・セグンドの「恋心を胸に抱き、東部の街からハバナへ向かう若者の想いを歌った曲チャン・チャンがバックで流れる冒頭では、まだロードムービーが始まるのではないのかというお馬鹿な期待を捨てない私でもあった。
 ハバナの海岸縁を走る道路に波頭が砕け散り、そこを古いアメ車が通り抜けていったり、、、。
 キューバの路上の犬は、なんだか勢いを感じさせる風格があるなぁとか、いたる所でヴィム・ヴェンダースの映像的意志を嗅ぎ取ろうとしたり。
 して、本当のこの映画の実体は「ハバナで二枚目のアルバムを録音していたライから、一度来てみないか、と電話があって、ほとんど事前準備もなく少数のスタッフと現地に行った」とヴェンダース監督が振り返るような制作体制だったようだ。
 後半、老音楽家達の奔放で魅力あふれるアムステルダムのコンサートや、ニューヨーク・カーネギーホールでの歴史的なステージの模様も描いているが、これも撮影開始時には予定されていなかったことだという。
 確かに、部分的には平凡な音楽ドキュメンタリーに過ぎない映像カットも多いのだけれど、全体を見ればやはりヴィム・ヴェンダース映画になっているという不思議な完成度を持つ映画だ。
 この感覚が見る側に生まれる原因は「撮影に際して唯一の基本としたのは、音楽それ自体に語らせること。私の考えを示すのではなく、彼ら自身の姿を追い、語ってもらった。素晴らしいミュージシャンたちをより多くの人に紹介したかった」というヴィム・ヴェンダースの眼差しと、何にもまして、この老音楽家達自身の存在感にあるのだと思う。
 「チャン・チャン」を始め「恋」の歌が数多く登場するが、それらをこの老人達が歌い奏でても、違和感もなんのいやらしさも感じさせない。むしろ若者や熟年の世代が歌うより純粋で熱っぽく、なにか恋を超えて違うものを歌っているような気にさせさせてくれるのである。
 (私は老人が「老人」であるが故に自動的に「人生の達人」であったり「高尚な存在」であるなどとは思っていない。老人はそういうチャンスを多く得た存在ではあるが、、念のため。)
 イブライム・フェレールが、インタビューの中で彼自身の信仰を語る場面があって、それが弱者の立場の可能性を開く「ものもらいの神・聖ラサロ」だという部分で、彼の素朴さを強く感じた。
 又、映画の後半に「歌では何も救われないと思えたときがあって暫く歌から遠ざかった」という彼の独白に、彼の「歌」の練度を感じさせられもした。
 「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」ではミュージシャン9名のインタビューが織り込まれるが、(この辺りの演出や撮影はライ・クーダーそのもの)彼らがいかに音楽と共に生きたのかがよくわかる。
 この映画はそんな彼らと「音」が主人公なのである。

 ビートルズが一時インド音楽に傾倒したのは有名だけど、ライ・クーダはキューバミュージックに身を寄せた訳だ。
 ブルースから始まって彼のボトルネック奏法(ラウーって楽器は面白いね。ブルージーなハープシコードギターかな。)って感じを考えると、キューバミュージックに合流して行く事はすごく自然なことだろうなと思う。
 でも本編のライ・クーダが老音楽家達に見せる気遣い、やさしさ・共感は半端じゃないね。

 繊細で地味だがパワーに満ちているキューバミュージックの音・音。
 そしてヴィム・ヴェンダースの渋くて綺麗な映像。
ビデオで鑑賞ならヘッドホンとアルコールの入ったグラスをお忘れ無く、、、。







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