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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

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オーディション 映画レビュー50選(19)

 ◇ストーリー◇
 7年前に妻を亡くし、ひとり息子の重彦を男手ひとつで育ててきた、ビデオ制作会社の社長・青山重治。
 ある日、重彦から再婚を勧められた彼は、友人である映像プロデューサーの吉川に相談を持ちかける。
 彼の話に興味を示した吉川は、現在進められている映画の主演女優のオーディションにやってきた女性の中から青山に合った再婚相手を探そうと言い出し、早速オーディションが開始された。
 初めはあまり乗り気ではない青山であったが、彼は24歳の山崎麻美という女性に惹きつけられ、何度かデートを重ねていくうちに、すっかり彼女の虜となってしまう。
 そんな彼の気持ちに応えように、麻美もまた彼を愛するようになっていった。
 「私だけを愛して」そう囁く麻美に頷く青山。だが、吉川は彼女の身元が明らかでないことに不安を感じていた。
 そんな矢先、麻美が失踪してしまう。
 そして、その頃から青山も幻覚に悩まされるようになる。
 現実か幻覚か判断のつかぬ世界の中で麻美と再会した青山は、彼女の不幸な生い立ちを聞かされる。
 両親の離婚、預けられた伯父夫婦による虐待……。
 そして、麻美は遂に彼女流の愛情表現を青山に示すのだった。
 運動機能だけを奪う特殊な注射をして、動かなくなった彼の体に次々に針を刺し、挙げ句の果てに足首を切断する麻美。
 今までにも、彼女は伯父やレコード会社のプロデューサーを同じように「愛して」きたのだ。


 監督は、実写版ヤッターマン等、映画作りで好き放題遊んでる三池崇史、原作は村上龍。
 ところでchikaが昔から注目している作家は村上龍と立花隆だ。
 二人とも「現代」を見つめ続ける作家だからだ。
 特に村上龍の世界を見つめる目は、私たちを否定しながらも、私たちと同じ視点の高さを保持していて、いつも共鳴させられる部分が数多い。
 驚くほどの知性の煌めきがあるわけではないが、彼の強靱なスタンスと感性が好きだ。しかしchikaは彼の小説の熱心な読者と言うわけではない。
 村上龍の本で最近で読んだモノは「イン ザ・ミソスープ」ぐらいで、どちらかと言えば彼のメッセンジャーとしての仕事ぶりに惚れているのだ。
 で、この映画である。
 村上龍の原作は読んでいないので、映画を見ている間中、常に小説「イン ザ・ミソスープ」の世界がBGMの形で頭の中に流れる始末だった。
 左からは村上龍が、右からは三池崇史がやって来てchikaを責めるのだ。
 chikaはこの映画を、ミステリーでもホラーでもなくSM映画として捉えている。(ちなみに村上龍はとても上質なSM作家だとも思っている。)
 村上の上質な部分は、映画の中で、麻美(椎名英姫)のセリフ「言葉なんか嘘だけど痛みだけは信じられるもの。」や「自分がどんな人間がかがわかるもの、苦しいことや辛いことだけなの。うんと辛い目に合ったときだけ、自分の心の形がわかるのは。」に引き継がれているようだ。
 SM映画の側面は、画面の節々からあふれ出ているのでここで改めて書き記す必要はないだろう。
 特にヒロインの住む、めちゃくちゃ汚なくて古いアパートの一室において、異常に汚い畳の上に放置された大きな石橋蓮司的麻袋である所のSM産業廃棄物とか(笑)。
 あれはサダコホラーとSMの融合だね、それに椎名英姫のラストの扮装など、その手の風俗店のコスチュームそのまんまだし。
 それにしても青山(石橋凌)の手首が、陸に引き上げられた魚見たいにびくびくする場面はやけにリアルだった。

 けれど改めて考えさせられてしまうけど、SM映画で描写されるのがお似合いの現代社会って一体何なんだろうね。 
    



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ベニスに死す 映画レビュー50選(18)

 ルキノ・ヴィスコンティ監督

 ちりちりと焼け付くような思いで「ベニスに死す」を見終えた。
ヴィスコンティのカメラが、教授の視点で、彼が焦がれる少年の姿をズームで、あるいは望遠で捉え続ける。
  この映画、アッシェンバッハ教授のダッジォに対する「まなざし映画」とも言える。
 教授を撮影する時だけ、映画的なカメラワーク(意味を付加する)が入り、それが映画としての全体像を補完するようだ。
 教授に近づいてきたダッジォという名の少年の「美」の偶然。
 やがてそれは偶然ではなくなり、「おっとこれは恋なのかも」の世界に、、、、。
「でも相手は子どもなんだぞ、しかも男だ、、。」
 この辺りの教授の心の揺らぎを格調高く言い回す人もいるけれど、「好きになったらそれっきり」人間の心なんてそんなものだし、それでchikaは十分だと思う。
 「駄目だ、ここにいちゃどうにかなっちまう。でもあの子の誘いかけて来るような表情は一体なんなんだ。」
 後ろ髪引かれる思いでベニスを出る教授に「荷物発送」の手違い。
 「これは私に、ここにとどまれという天命なんだ。」
 このあたりの心理描写が、台詞などの補助的な手段がなくても、実に見事に描かれる。
 ダーク・ボガードの名演です。彼の表情の描写が凄く素直。
 <所で、ビョルン アンドレセンは裸より水着姿のほうが断然エロチックだね。特に横縞模様の奴ね、被服のエロス、、。>
 教授の奥さんとダッジォの風貌が似ているというのは、男が男に、しかも老人が少年に惚れる為の引き金でもあり免罪符でもあるんだろうね。
 そして、ダッジォにインスピレーションを得て作曲を始めた教授の前を、タオルで身体をくるんだダッジォが歩き去るシーンから、「ヴェニスに死す」は極めて映像的になっていくんだよね。
 これは彼ら二人が、同一画面に入るようになった(物語が始まった)という合図みたいなんだけど、、、。
 「ダッジォがピアノを弾いてるぞ。絶好のお近づきのチャンスじゃないか。だめだ。私にはできん。駄目だ。ああ、ダッジォ、そんな笑い方はよせ、その男を誘うような笑み、他の奴に向けるんじゃない。」と教授は自分の中に嫉妬の感覚があることを知る。
 「ああどうするんだ。私は本気になってる。」
 同時に映画はベニスに起こった疫病の蔓延を「悪意の楽隊」で不安を象徴的に現していく。
 「コレラの流行、2・3日中に交通が断たれます。」という情報を得た教授の前の無惨なヴェニスの風景も、「荒廃の美」って感じで、ダッジォの姿をつけ回す教授が徘徊する都市としてぴったりだ。
 恋の告白がしきれない心。若さの美と老醜の対比。
 回春を目指してピエロのようなメイクをした教授、そして教授の汗で額に流れる染め粉の向こうにいる「美」のダッジォ。
 だがダッジォは一人ではない。
 二人の少年達が教授の目の前で、幼い取っ組み合いのけんかをしてる。
 しかし教授にはそうは見えない。
 燃えさかる肉欲の妄想。自分の手が決して届かない所にその美はある。
 そして最後に教授はその「美」に手をさしのべながらコレラに命を落とす。
 本当に分かりやすい映画だよ。
 いいかたを帰れば素晴らしく表現力の高い映画だという事。
 少年と教授が接触したのは1度だけ、しかも、幻想の中で彼の頭に手を置いただけなんだよね。
 教授は現実には声さえも掛けていない。
 もし教授がダッジォに声を掛ける事に成功していたら、どうなっていたのか、、。
 あまり良い予想はできないなぁ。
 だからこそ教授も声を掛けなかったんだろうけど、、、「ベニスに死す」はそういった緊張の中で成立した物語なのかも知れないね。




「今夜、すべてのバーで」

中島らも 

  らもさんへのしっかりした追悼文を書こうと決めてから随分時が経ってしまった。
 chikaは「ガラタの豚」と「水に似た感情」の2作品しか知らないので、せめてもう一作品と考えていた時に『今夜、すべてのバーで』はまぎれもなく傑作だという風野春樹さんの声に押され、本作品を読んでからにしようと思ったからだ。
 それになんとなく、らもさん死去に合わせて平積みにされた文庫本を手に取るのが躊躇われたこともある。
 初な文学少女じゃあるまいし、これは不思議な感覚だ。
 chikaの傾倒する作家はW村上氏だけど、もし彼らの死去のニュースを聞いても、らもさんの時のような「たじろぎ」はたぶんないだろうと思う。「たじろぎ」の正体はらもさんが放つ「身近さ」なのだろうと思う。
 勿論それは、らもさんが書いたものが「庶民的だった」などということでもないし、らもさんが人間の卑小さを好んで描いたからというわけでもない。
 人と人が向かい合った時に、相手の外見ではなく内面をどれだけ感知出来るかは、その人間の練度なのだと思うんだけれど、らもさんはそれを自分自身の「卑小さ」と「たくましさ」の間を行き来しながら、それに鋭い観察力を加えて練度を高めていった人なのではないかと思う。
 「同じ目の高さ」の表現という言葉があるが、らもさんの場合は「同じ内面を見る目の高さ」に加えて「タフさと繊細さ」が融合した表現者なのだ。chikaにとってその表現が身近に感じられないわけがない。
 「今夜、すべてのバーで」で、主人公の小島容と「担当医」赤河が霊安室で若くして病死した少年を挟んで喧嘩をする下りは、らもさん自身の「タフさと繊細さ」の葛藤を見ているようで本当に泣いてしまった。
 ・・そしてらもさんの「依存」への考察、、「依存」の正体が解明出来れば「人間存在」だって判るのだ。chikaもそう思う。
「今夜、すべてのバーで」を破滅と再生の物語だとして読む人もおられるようだけれど、残念ながらchikaには、らもさんが本気で再生を信じてこの小説を書き終えたととはとても思えない。
 というよりも小説としての体を成す為には、はさやかと容の洒落たツーショットで終わるしかなかったのではないかと思う。
 人は「再生」などしない。ただ「希望」や「夢」を時相応に紡ぎながら死んでいくだけだ。そんな簡単な理屈がわからないらもさんではないだろう。
 だからこそ「希望」や「夢」に、らもさんなりの彩りを添えて私たちに提示しようとするのだろう。それが「今夜、すべてのバーで」の正体ではなかったかと思う。
 らもさんの「明るい悩みの相談室」の舞台裏が、アルコール依存症と鬱病と躁病であったことは、何か奇跡的な必然さえ感じさせられるのだ。改めてご冥福を。


 

マルホランド・ドライブ 映画レビュー50選(17)

監督・脚本:デビッド・リンチ
 
  純粋な感想からまず一言。ナオミ・ワッツの演技力が凄い。
 ナオミ・ワッツはこの映画の中で田舎からハリウッドにやって来た女優志望の女ベティを演じる。
 ベティが初めてのオーディションで見せる演技力が回りの映画スタッフを驚嘆させるシーンがある。
 それをナオミ・ワッツが、演技の巧い天才的な素人として、又、巧く演じるのである。
 オーディションはベティが初老の男に絡んでいくラブシーンなのだが、相手の男は「おいおい、そこまで入れ込んだら本気になっちゃうぜ。」て感じで一瞬引いてしまう程濃厚なエロチシズムを発揮するのだ。
 その後、ベティは気だての優しい純朴な女性に一瞬にして戻ってしまう。つまりナオミ・ワッツはそういった複雑な「演じわけ」や「落差」が表現できる女優なのである。
 更にナオミ・ワッツは、映画前半での素直で優しいベティから、記憶喪失のリタが自分の正体に気づきかかけてからの、神経質で嫉妬深いベティまで、まるで別人かと思えるような天才的演技を見せてくれる。
 リンチ監督は、本作に限らず、こう言った、めくるめく入れ子細工的世界が好きだが、、このナオミ・ワッツの演技力は、まさにそんなリンチワールドにうってつけなのではないかと思う。
 勿論、作品の構成からみれば、煌びやかなハリウッド女優イメージを体現したルックスを持つローラ・エレナ・ハリングの存在も非常に重要であり、彼女がリンチワールドにいつも漂う「濃密な官能」の密度をより高めているのも忘れてはならない。
 そしてこの二人の女優を配しての、ベティとリタの初夜シーンは、まさにリンチ監督が描く理想の物語内「レズシーン」ではなかったかと思う。
 リンチ作品としては、全く違うものを描き出したと言われるヒューマンドラマ「ストレイト・ストーリー」の次作に当たる、この「マルホランド」は、元の難解幻惑路線に戻ったリンチ作品として位置づけられるらしい。
 しかし、確かにこの映画、難解ではあるが「ストレイト・ストーリー」で見せた人間表現のストレートさ(ギャグじゃないよ)は、この作品にも充分に現れていると思う。
 単純に昔のリンチに戻った訳ではないのだ。
 自分の家に闖入していた記憶喪失のリタに対して異様に優しいベティが、レズビアンである事が判り、更に映画後半に全開になるリンチワールドで「夢落ち仕かけ」が観客に見え始める頃から、ベティの愛と苦悩が実に「ストレート」に伝わってくるのだ。
 chikaなんてクラブ・シレンシオで女性歌手の悲恋の歌を聞きながら泣いている二人を見てシーンときたもの。
 リンチ監督が作り出す迷宮は、その迷宮ぶりによって、いくら生の感情を作品の中にインサートしてもそれが直接的に観客に届くことはなかったと思う(ワイルド・アット・ハートでさえ)。
 それが「ストレイト」をきっかけにして、しかも全体のリンチらしさも損なわず映し出せるようになってきていると思う。
 これは、chikaのように、リンチ作品に対しては、抽象画を鑑賞するスタンスのごとく「理屈を問わずして、ただ感じた事だけを大切にしよう」と決めた人間にも非常に助かる変化である。
 だからと言って「謎解き」の楽しさというか、その迷宮ぶりがリンチ映画の魅力である事は、この「マルホランド」から失われている訳ではない。
 Web上の日本語サイトにも随分、「マルホランド解明」があるので一度覗かれたらどうかと思う。
 こういった「解明」があった後でも、リンチ監督が作り上げた世界の色艶は失われず、逆に光を増すのだからリンチは、やっぱり凄い「映画」作家なのである。

 ”マルホランド・ドライブ"とは、ロサンゼルス北部の山を横断する実在の通りの名前なのだと言う。
 若者たちが夜中に猛スピードでレースをする場所としても有名らしい。
 曲がりくねった暗く危険な道だが、その眼下にはハリウッドのきらびやかな街並みが一望できるのは、実際に映画の中でも何度も描写されている。
 その道で起こった事故から始まるこの物語、ある意味、マルホランド・ドライブの存在自体がこの映画の簡略図でもあるようだ。
 すこしだけリンチ監督は観客に優しくなっている。
 chikaのような人間がこの映画を見ても、映画の前半が「夢」であり、後半に現実がある事が判る。
 それに、なんとこの映画の主力テーマが、超越した彼岸にあるのではなく「ハリウッド世界のレズ恋愛に重ねたドロドロ愛憎」にある事も判るのである。
 chikaは、リンチ監督のこんな「変化」を大いに歓迎している。

PS それにしてもハリウッドのメイク技術は凄い、、。演技力もあるんだろうけど、ナオミ・ワッツの変貌ぶりなんて、凄いもの。




ドーベルマン 映画レビュー50選(16)

 フランス既存映画への“挑戦状”ヤン・クーネン監督の「ドーベルマン」。
 公開当時は国内でも結構騒がれていた記憶がある。
 勿論「ドーベルマン」観ました。
 ドラッグ・クイーンのソニアが、狂気警視クリスチーニに家庭まで踏み込まれて精神的にズタズタにされるシーンにシンクロしてしまって妙な胸苦しさを覚えたり、、。
 でもバイオレンスやアクションシーンなら日本のVシネマ辺りでもそこそこやるし、斬新なカメラワークも1時間以上連続で駆使できる訳もないし。
 と、まあchikaの当時の評価は△○だったんですね。
 それでも心の中には何かが引っかかっている。数年すれば観たことも忘れてしまうような映画が多い中で「引っ掛かって」いるのは、この映画に「何か」があるからなんですね。
 リーダーのドーベルマンことヤン・ルパントレックは生まれながらの強盗。「生まれながらの強盗」っていうのは比喩じゃなくて文字通りの意味。
 そして彼の仲間は、薬に溺れ常に殺人の衝動に駆られているムス、斧を振り回す犬好きの巨漢ピットブル、聖書の中に手榴弾を携帯する神父(アッベ)、同性愛者で女装好きのドラッグクイーン・ソニア、廃車回収業者でありマシンガンの使い手レオ、ヤンの恋人で爆弾の扱いに長けた聾唖の美女ナット、狙撃の名手にしてナットの兄であるマニュがいる。
 これが一種のコミニュティを形成してるわけなんですね。
 まあ普通の視点で映画を撮ればそれこそ殲滅すべき兇悪集団って所なんだけど、ここに彼らの狂気を数段上回る純粋狂気たるクリスチーニ(しかも国家権力を背景にしてる)を配置する事で、違う要素を映画の中に作り上げているわけです。
 で、後日、ビデオレンタルで見つけたのがこの「ドーベルマン・エクスプレス」。
 このエクスプレス、ただのメイキングビデオかと思ったら、ヤン・クーネン監督の小中編映画が収録されているのですね。
 「ブルーム・レース」「ヴィブロボーイ」「キャプテンX」「赤ずきん」これだけ観ると、ヤン・クーネン監督の輪郭が何となく見えて来る。
 ヤン・クーネンの表現は日本のヤング・アダルトコミックの輪郭と同じだと思いこんでいたけれど、少し違うみたい。
 特に「赤ずきん」を観ていると(私のお気に入りです。)その感が強くなる。
 この監督の切ないまでの「暴力」への思い入れは一体何なんだろうと思う。
もし、レンタル店の棚にこれがあったら、騙されたと思って観ても損はないと思いますよ。



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