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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

ボーイズ・ドント・クライ 映画レビュー50選(3)

boysdont.jpg   男が女にアプローチする。男(きめてやる)「何処に住んでいるように見える?」女(うっとりし興奮した口調で)「どこか美しいところの人。」
 確かにそうなんだ。彼(ブランドン・ティーナ)は「どこか美しい場所に住む人」だった。
 一人の女性が、自分を「男」だと思い「女」に惚れる。
 だが「レズだ」とは認めない。
 生物学上「女性」と分類される人間が「女性」を愛したならばそれはレズビアンと呼ばれる。
 けれどその女性は自分が「女性の身体」に間違ってはいってしまった「男」だと思っているからレズビアンではないのだ。
 結局の所、性の境目は何処にあるのだろう。それは宇宙船みたいに内部が発光するアメ車の中でのカーセックスにあるのかも知れない。
 あるいは、闇の中で追跡してくるパトカーがもうもうと立ち上る埃の中で幻想的に見えるほどの道の上にあり、しかもそれは、極度の緊張と興奮の中でライトを消して疾走し真っ暗な破滅へむかっていく男や女達のイメージと融合してしまうものなのかも知れない。
 しかし、この映画幾つかの象徴的なシーンを除いては、「性の問題」は寒々しく無軌道な現実の積み重ねの中で語られ、最後にはお定まりの悲劇が待ち受けている。
「彼らが望むそうあるべき姿を伝えるのよ。」
 そしてブランドンの存在は受け入れられず、否定される。最後までブランドンの肯定者であったラナさえ、ブランドンの些細なヘヤースタイルの差でブランドンの性別を認知してしまうシーンが痛々しい。
 だがこの映画、性同一性障害(体の性別とこころの性別との間に相違が生じ、何らかの 「障害」 を感じ、自分が別の性に属していると確信している状態)のテーマに真正面から切り込んだものではないのだ。
 題材的にはそうできたのだろうが、実際には色々な見方・感じ方が出来る映画だ。
 それともう一つ、この映画が単なる告発映画に成らずに、違う側面を持ち得たのはヒラリー・スワンク(ブランドン・ティーナ)という女優を得た事が大きいだろうと思う。
 もし違うキャステングなら一言一句同じものを撮り上げたとしても又、違った印象を持つ映画になったに違いない。
 それはこの作品を撮ったのが単なる一映画監督であり、一運動家ではなかったという査証でもあろう。
 この映画、よく見ていると、ヒラリー・スワンクとクロエ・セヴィニー(ラナ)が並んでいるシーンが随分スタイリッシュだったり、ピーター・サースガード(ジョン)、ブレンダン・セクストン三世(トム)らの描写も彼らの狂気や暴力を端的に描きこそするけれども、過剰なリアリティを目指さず、実は「汚い部分」が一つもないことに気づく。
 私にはこの監督が、性同一性障害という題材を扱いながら、映画を上に上げた感覚を織り交ぜて描き出す事につて、批判的に見てしまう時と、そうでない時があるのだ。
 私のその揺らぎは、明らかにキンバリー・ピアース監督がブランドン・ティーナを「男装の女性」として我々に提示した上でこの映画を撮っているという事から起こっている。
 その構造の上で性同一性障害という課題がどう咀嚼されているのだろうかという疑問を感じるのだ。
 映画の中では、ブランドンの正体が、ジョン達にまだばれていない時点でも、彼らを中心にして、男性と女性の性的な緊張関係を思わせる多分にエロチックな描写がよく登場する。
 例えば「埃のない高速道路」でブランドンの背後から彼を焚きつけるジョン、その時の二人の表情などがそうだ。
 こんな場面を見ていると監督自体がブランドン・ティーナの性のファンタジーを楽しみ、それを密かに我々に提示しているようにさえ見えるのだ。
 つまりブランドン以外の全ての人間は(私たち観客も含めて)彼の「性」を自分の都合のよいものとして見ている事になる。
 初めジョンは男としてのブランドンの裏側に「女」を読みとっていたに違いないし、ラナに至ってはブランドンの正体を知った後でも己のファンタジーに固執し続けるのである。
 しかし、周囲の人間の欲望や生活のゆがみを吸い付ける事で、魅力的であったブランドンの「両性」も、ある臨界点を越えると一気に「現実」に引き落とされてしまう。
 この映画の場合では「レイプ」シーンでそれが露になるのだが、、。
 でもこのシーンは本当に性同一性障害の「社会的・外的障害」の一端を描いているのだろうか。
 先にも書いたようにこの映画は、そういった問題を扱うための告発映画ではないし、単独で充分魅力的な映画である。
 いや十分に「魅力的」だからこそ私は混乱してしまうのである。
 皆さんはアダルトビデオシリーズに「レイプ物」といった分野があるのをご存じだろうか、、。
 私は、「現実と想像領域の差」といった内容や、モラルについて言及したい訳ではない。
 私は、私たちはすべて「内なるファンタジー」に突き動かされて現実を生きているのではないかという気がしている。
 そういう立場からみるとこの映画は酷く混乱していて、その混乱自体が「魅力」的に見えるのである。





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