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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

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月光の囁き 映画レビュー50選(15)

監督: 塩田明彦
  フェチという「変態」がテーマなのに、良いお酒の如く楽しんだ後、快い余韻がある映画。
 変な言い方なんだけど淡々と展開する「透明な変態映画」なのです。
 「変態」さんには、ある種の免罪符的な酔いをもたらす映画でもあります。
 この世界に余り関係のない人(そんな人いるのかなぁ~)には、ちょっとカーブのかかった青春純愛映画に見える筈。
  大林宣彦監督の映画かツルゲーネフの「初恋」を思わせるような北原紗月(つぐみ)と日高拓也(水橋研二)の恋が始まって、やがて拓也が犯した「変態」への咎としてほろ苦い破局が待っている映画なのかと思いきや、この二人、微妙なハッピーエンドを迎えるのです。

 夕暮れの誰もいない教室、冗談半分で差し込んだ日高の鍵が、あこがれの人である紗月のロッカーを偶然に開けた。そのロッカーの中から、紗月のブルマーを取り出し、顔に押しあて「紗月」を吸い込み恍惚に震える拓也、、、。
 そして時が経ち、今までは「あこがれ」に過ぎなかった紗月からの告白によって、自分とは相思相愛の関係だった事を知る拓也。風邪で休んだ拓也の家に、高校を休んで訪れる紗月。「風邪が移る。」「かまへん。」紗月自らが望んだSEX。
 その紗月と結ばれた拓也は「その夜、紗月の分身(フェテッシュ)達を燃やした。」。

 でもそれで収まらないのが「変態」の業です。
 後半、拓也に「神様が僕をこう生んだ」と言わせるシーンがあるんですが、正にその通り「変態」は決して治りません。
 そんな拓也を知って「正常側」にいる紗月は、拓也に「変態」の一言を投げつけます。
 逆に「誰にも言えない俺の姿を知ってくれている紗月」あるいは紗月と言う名の「女」のフェテッシュを追い求める拓也。
 それに対して、拓也の「試せない愛」を試そうとする紗月は、やがて「普通の女子高校生」の性意識から逸脱し始めます。
 この逸脱を紗月のサディズムの発露と見るのか、その他のものとして受け取るのかはこの映画を見る者の自由なんですが。
 でも、この映画どうしてここまで透明でリリカルなんでしょう。水橋研二の眼が綺麗だからか?つぐみのキャラクターがそうさせるのか?
 足フェチの場面だって相当にエロだけどAVのそれとは対局の位置にあるみたい(なにアップで撮るかどうかの違いだって?)。
 で、ふと思ったのは、この二人の年齢設定が上ならどうなるのかしらという事、、。
 すべての事に、おずおずとそして純粋に余裕もなく手探りで生きていた時代。
 その時代の中では「恋」が際だっているだろうけど、勿論、個人の思いでは変えられない「変態」という性だって含まれているんだと思います。
 だからこそこの映画は透明なのかも知れない。
 ラストに流れるスピッツの「運命の人」は、この物語が永遠のファンタジーである事を感じさせます。
 塩田明彦監督作品には、男たちの気を惹くためにギプスを装着する美女が登場する映画もあります。
 映画の題名はそのまんまの「ギプス」。
 話は、偽装ギプスの女・環と、なんとなくMっけが混じったレズぽい関係に陥ってしまった和子が、二人の関係を逆転させようと匿名で仕掛けた危険なゲームを中心に展開します。
 そのゲームとは、男を殺害してしまった環を和子が陰で強請ること。
 所が環は逆に、脅迫状に書かれた要求額500万の手配を和子に手伝わせようとするんですね。
 それに対して和子は、強請っているのは「実は自分だ」とも言えず、環の誘惑に落ちて、金の工面の為にギプスをはめて男たちを誘う羽目に。
 この映画の面白さは、和子が最初、普通の女性として描かれていることですね。
 和子は、たまたま出会ったに過ぎない美しいけれど一風変わった雰囲気を持った環に、ほんの少しだけ興味を感じてつき合い始めるわけなんですが、環のギプスが偽装だということを知った(さらにそれを心の中で受け入れてしまった)時点で、二人の関係性が抜き差しならないものになってしまうという部分が肝なんです。
 人は、通常(普通)でないものや、出来事を「異常」だと認識して、それを自分の心の中から破棄する能力を持っているわけですが、時々(いや往々にして)、「異常」さそのものに魅入られてしまう時があるんですね。
 北原紗月と日高拓也の「フェチ」を挟んだ恋愛。
 環と和子の「フェチ」を挟んだ支配被支配的レズ関係。
 面白いですね。さて『フェチは「ひとり」、SMは「ふたり」』と言えますでしょうか?



 
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6月の蛇 映画レビュー50選(14)


 今日は「6月の蛇」のご紹介。

 『スカートの下にパンティを付ける事を禁じて、電動ヴァイブを挿入させたまま街を歩かせる。
 やがて女は自ら「恥辱」を反転させながら、今までにない快楽の波に飲み込まれていく・・だがその女は貞淑な人妻であり、、。』
  これなど、SM小説の世界では古典的とさえ言えるシチュエーションで、AVでも、素人さんのご夫婦でもこれをなぞったりする事は珍しくない。
 塚本監督がこの映画の脚本を書いた時だって、そう苦労はしていない筈だ。
 第一、携帯電話で主人公りん子に送られる言葉の中身なんて「八百屋で(オナニー用の)キュウリとなすびを一本ずつ買って来い。」だの「電動こけし」だの、スポーツ新聞連載のエロ小説レベルでしかないのだから。
  要するに脚本の骨子となるものは、日本男性なら誰でも考えつく俗っぽい性的ファンタジーであり、映画を作る上で、巷のAV制作の困難さを上回るものがあったとも思えない。
 それでも「6月の蛇」は、映画として良質である。
 ・・これほど身を硬くしながら映画を見続けたのは久しぶりの事だ。

 何日も雨が降り続く六月の東京。
 りん子は心と健康の電話相談室に勤めている人妻だ。
 潔癖症の夫とはセックスレス状態にある。しかしお互いの愛情が薄れているわけではない。
 ある日、りん子は職場で一本の相談電話を受け取る。
 りん子はその相手を励まし、自殺を食い止めることができた。
 だがそれをきっかけにその男からりん子へのスト-カー行為が始まる。
 彼女の自慰行為を盗み撮りした写真が送られてきたのだ。
 その日からりん子の恥辱と恐怖の日々が始まるのだった。

 「6月の蛇」は、主人公りん子に猥褻行為を強要するストーカー男にのみに焦点をあてるのなら、エロチックサスペンスドラマという事になるのだろうが、この映画を見ることで感じる緊張感は、一般的なサスペンスドラマから得られるような意識の表面を走るだけの軽いものではない。
 もっと生理的で、根元的な部分に迫ってくるものなのだ。
 それは村上春樹氏の「ねじまき鳥クロニクル」の根底に流れているものに近い。
 もっともこのバイブレーションは「6月の蛇」に限らず、「鉄男」をはじめとする塚本作品のすべてに(妖怪ハンターは除外)通底するものなのだが、「6月の蛇」ではそれが際だっているのである。
 このパワーの増大は、「6月の蛇」の心理的SM行為を際だたせたストーリー展開にも助けられていると思うが、なによりも塚本監督のスクリーン上に描く「絵」の変化が大きいように思える。
 言ってはなんだが、塚本作品から最も縁遠いものは「お洒落」である・・それが「6月の蛇」では黒沢あすかの起用と、スクリーンを覆う青黒い画面と雨の都市を描いて、思いがけずスタイリッシュに仕上がっている。
 どしゃぶりの雨が降りつづける世界。
 紫陽花の花とナメクジ、側溝に流れる濁流と浴室の天井の丸いガラス窓をたたき続ける雨。
 ショートカットの若妻の頬から噴出す玉のような汗。
 今までのドロドロとしたエネルギーに溢れた泥絵のような作風の見栄えが、ほんの少し、しかも洗練という逆のベクトルに変わっただけで、より塚本監督の情念が息づいて見えるとは不思議なものだ。
 ただしこの変化は、黒沢あすかという女優の起用があってこその話だろうと思う。
 塚本監督が「妻の役は下品なことをしてもらうので、上品な女優でないと無残なことになると思って黒沢さんにお願いした。」と言った通りに、いやそれ以上の効果を黒沢あすかはこの映画に与えているのだ。
 「ボーイッシュなヘヤースタイルに黒縁眼鏡。ホントは綺麗なくせに、ださく見せる演出がわざとらしくて嫌。」とか思うのは最初のうちだけ。
 後は、ぐいぐいと黒沢あすかが演じるりん子の「オンナの普通さ」、業のありように魅せられてしまう。
 ラスト近く、りん子が夫と夕食を採る場面の愛らしさと、降りしきる雨の中でカメラフラッシュに晒されながらの吠えるようなオナニー姿の対比は、圧倒的で感動さえ覚える。
 この黒沢あすかがあってこそ「最終的にりん子と夫は新しいお互いの関係を再構築出来たのか、それとも、、?」と言った感じのあの微妙にずれていく不思議なエンディングの感覚が得られるのだろう。 

 いずれにしてもこの映画の勝者は、スクリーンの中ではりん子であり、スクリーンの外では黒沢あすかと言えるだろう。
  勿論、それは、このキャストと絵作りで「6月の蛇」を撮り終えた塚本監督の才能があってこその話だが。
 ただ後半に差し込まれる殺人クラブ等の妙なエピソードや、イメージ画像は蛇足だったかなと思う。
 ・・この人の今までの映画って、この蛇足部分で全部出来てるんような気がするんだけど(笑)。
  最後まで疑問なのはコラムニストの神足裕司を、過剰なまでの潔癖性の夫に配したこと。
  どちらかというと容貌魁偉な神足裕司のイメージからは潔癖性の夫は連想できないし、神足裕司の夫とストーカー役である塚本晋也の「うん、この消臭薬飲んでるのがわたしらの共通点ですよね。」といった会話もまるで二人に似合っていない。
 ただこの二人(特に神足裕司)のおかげで、りん子こと黒沢あすかが輝いて見えた事は確かなのだが。







トーク・トゥ・ハー 映画レビュー50選(13)

  ペドロ・アルモドバル監督の映画って、こんなに映像がきれいだっけ?というのが第一印象。
 看護士ベニグノのアリシアに対するケアのシーン(元の頃のやつね、後になると不気味さがボリュームアップ)だとか、女闘牛士リディア(ロサリオ・フローレス)の闘牛シーンや彼女がコスチュームを着るシーンなんかが実に綺麗でエロチック。
 その他でも、表面的なストーリー展開に欠かせない会話シーン以外では、抽象性と色彩豊かな映像美を両立させたシーンがてんこ盛りでとてもデリシャス。
 勿論、この映像の背景としてバレーだとか闘牛だとかスペイン独自の文化の豊穣さがあるわけなんだけどね。
 ククルクク・パロマを聞き入る聴衆シーンも、歌そのものが凄くて会場から離れざるを得ない二人目の主人公であるマルコ(ダリオ・グランディネッティ)の心理描写も、こう言った場面設定があるからこそ、全体の流れを壊さずに描けるのだと思う。
 マルコの事を二人目の主人公と書いたけれど、個人的にはこの映画の主人公はハビエル・カマラが演じるベニグノだって思ってる。
 ペドロ・アルモドバル監督の場合、いつもだったら、この映画に登場する二人の眠り姫(アリシアとリディア)の「オンナ」にテーマが終結しそうに見えるけれど、実際にはベニグノの内面にある「孤独な愛」に対置されるようにして「男と女」が語れれる仕組みになっているからだ。
 そういう意味では、ベニグノという存在を照射するために置かれたマルコの存在感に若干の無理があるような気がして残念だった。
 二人の女性との恋に破れたマルコが、ベニグノのアリシア(レオノール・ワトリング)に対する一人芝居の愛を見つめながら、やがて「ベニグノ、俺はお前なんだ」と呟くシーンがちょっとべたつくのだ。
 だってマルコはなんだかんだ言ってもモテる男なんだから。
 そんなマルコがキモ男君のベニグノに共感する筈ないわけで、、。(まっいいかぁ映画なんだから。)
 この映画、アカデミーのオリジナル脚本賞受賞に輝いたらしいけれど、確かに良くできていると思う。
 映画を見た感想の中で、「植物人間になった女性を追いかける為に専属の看護士にまでなった変態ストーカー野郎」であるベニグノを神聖視してるみたいで納得行かないというものがあるけれど、これも計算尽くだろうと思う。
 だってベニグノのアリシアに対する看護ぶりは元の頃は極めてノーマルに描かれているんだけど、徐々にその異常性が浮き上がってくるように展開してあるんだから、、。
 こういった人物の描き方の方が怖いと思うんだけど。
 それでいてベニグノのアリシアへのレイプや妊娠のシーンが巧妙に回避されているのは、監督が描きたかった着地点が、ベニグノの「異常性の真横」にあったからなのだと思うんだ。
 映画の中で劇中劇のような形で、ある男性が新開発のやせ薬を飲んで縮んでいき、あげくの果ては薬の開発者でもある恋人の性器に潜り込んで帰ってこなくなるという「縮みゆく恋人」が挿入されるんだけど、この劇中映画も唐突なように見えて隠喩的な役割を果たしているから見事だ。
 一見、単純な胎内回帰のイメージの喚起しか果たさないこの劇中映画は、ベニグノという男に置き換えてみると、眠れるアリシアを犯すという記号にすり替わるわけね。
 又、アリシアの元バレー教師によって語られる創作バレーの設定が「戦場で倒れた男の身体から離脱していく魂はオンナで、男から女が生まれるのよ。」だったりして、これもベニグノが精神分析医に潜在的なホモではないかと判断される事に奇妙に一致しているわけ。

 おそらく監督は男女差を超越した部分で、男と女の果てしない時には無常さえ感じさせる閉じられた円環を示したかったに違いないと思うのよね。
 果たしてマルコとアリシアはベニグノが死んだ後、ちゃっかり恋人同士として巡り会うんだから。

PS アリシア役を演じるレオノール・ワトリングが目覚めた状態で演技する場面はちょっぴりなんだけど、ベニグノに看護されるシーンでさらされる彼女の美しすぎる裸体で十分、、。
 その辺りも監督きっと意識してる思います、、さすがペドロ・アルモドバル。 

 





マルちゃん 正麺 醤油味

 こういうブログに、こんな内容が相応しいのかどうか迷うんだけど、まあログだし、アーカイブだし、記録に残すってことで。
 それでもって今日の話題は「マルちゃん 正麺 醤油味」。
 これ、弟の家で食べさせてもらったんだけど、TVの役所さんの「嘘だと思ったら食べてみて下さい」CMが、かなり頭に残ってて「さあどうだ?」って身構えがあったからなー。
 多分、CM見てなけりゃ、ホントに吃驚してたと思う。
 今までの乾麺インスタントラーメンとは、確かに麺の出来が「次元が違う」といっていいほど違う。
 でもあのCMみちゃうとね、「まあこんなもんか」になっちゃう(笑)。
 そのせいか、世の中では、あまり話題になっていないようなので、これは正当な評価じゃないなっていう気持ちも手伝って、わざわざブログに書いてるって部分があります。
 このマルちゃん正麺の製法が、インスタントの標準になって更に完成度が上がったら、世の中の幸せ度がちょっぴり上がるんじゃないかと本気で考えてるし(笑)。
 「醤油味」食べてから自宅でも「味噌味」を試してみたんだけど、今度は麺の食感がちょっと変、、、ってよく考えてみたら、茹で上がってから食べるまでに少し時間があったのね。
 つまり、「出来立てのアツアツをズズッと」って言う本来のラーメンの食べ方をしないと、このマルちゃん正麺も駄目だっていう事なのよね。
 仕上がりが従来のインスタントと違うぶん、麺の伸び方も、今までと違うみたい。
 ボヨーンと太くなるだけじゃなくて、クチャクチャと片栗粉を固く練ったような、奇妙な歯ごたえのなさ。
 仕上げてから直ぐに食べても、専門店で出されるような麺と比べると、少し歯ごたえが弱いんだけど(これは仕方ないと思う)、それが時間が経つと、奇妙な結果に。
 実際、この乾麺を自分で湯がいてみるとわかるんだけど、袋から取り出した麺は、野菜のフリーズドライ食品の麺版みたいな感じで、白っぽくて、これがあの黄色い麺になるのかなあって感じで、指定されてる3分になってもなんだか、まだ白い感じが残ってるのね。
 それを器にいれると、あら不思議、ちゃんとラー麺になってる。
 多分、この茹で時間というのか、水を吸わせ熱を加えって過程が、半端なく重要なようですね。
 逆に言うと、多めの水をグラグラ沸騰させて3分きっかり(心持ち短いくらいでも可)ほぐしながら麺を湯がいて、さっとスープに入れる。
 そして間をおかずに、すぐに食べる。こうやるとちょっとインスタントラーメンとは思えないレベルに。
 袋にはスープは、別仕立てでお湯で溶いて下さいとは書いていなくて、麺を湯がいたものをそのまま使えと書いてあるんだけど、具をいれたり、さっきから書いている麺の状況を考えると、別仕立ての方が美味しいんだと思う。
 まあそこまでやらなくて済むのがインスタントの存在理由でもあって、そこの所が難しいんだけどね。

 思えば、チキンラーメンの登場以来、インスタントラーメンってホンモノを目指してはいるけれど、どこかでインスタントはインスタントっていう見切りを持っていたような気がするのね。
 で、辿り着いたホンモノ志向の最終形が、あの奇妙な生麺をパッキングして使うという、これならもう少しお金を払ってラーメン専門店に行ってもってレベルで止まる停滞期にあったと思うの。
 そこんところを、もう少し粘ってここまで来た企業努力に感心しちゃうわけよ、chikaとしては。
 後日、この記事を読み返して、「今のインスタントラーメン」の方がもっと美味しいのに、って日がくればいいんだけどね。






ブエノスアイレス(春光乍洩) 映画レビュー50選(12)

監督:王家衛(ウォン・カーウァイ)

 「苛烈な夏の暑さの下、愛されない乾きをもって映画ブエノスアイレスを見た。」な~んちゃてね(笑)。
 スクリーンに大滝の俯瞰が映し出されてタンゴが流れた時点で参りました。
 やっぱり映画は「才能」です。
 オッ、白黒ですか、デビットリンチを思わず思い出しちゃいますね。
 色が付き始めると、現実味が増す仕掛けなのかなぁ。
 でも光・色、ちょっとこだわり過ぎかな?
 気持ちが離れている時に、画面を見ると目がチカチカしちゃうよ。
 観る者の心を鷲掴みにして絶対にそれを離さないというタイプの映画じゃないんだからさ。
 特に血の赤と、人口灯の青と橙が好きみたいだね。
 これは撮影監督クリストファー・ドイルって人の得意技なの?
 ウィン達がサッカーかなんかの賭け試合してる時の撮影なんて一コマ一コマ前衛写真みたいな感じだけど、映画でそこまでする必要あるのかな?と思ったり。
 でも「香港が俺の脚の下にある」とレスリー・チャンに言わせて、本当に香港を上下逆に撮る稚気にはニンマりさせられたけどね。

 で感想は物語の方へ、、。
 ウィンとファイ、この二人ってきっと頭悪いんだろうな、、。
 ウィン(レスリー・チャン)、男の「悪女」かぁ、、。
 そんなのありそうでなさそで、、、結論、現実にはいないね。 
 それに「悪女」を描くなら、なぜホモセクシュアルに焦点を持って行く必要があったんだろう?
 ある意味、映画的にはそれがオシャレだったから?
 でもこの映画じゃ一応、そういうのが成立してるかな。
 で、本当の困ったちゃんはウィンより情けが深過ぎるファイ(トニー・レオン)の方だったりして、、。
 ファイが南米最南端の岬に向かう青年チャンの為に声を録音するシーンは、とてもとても可愛く抱きしめてあげたかった。
 こういうシーンを見てから「ブエノスアイレス」が、ヘテロの物語だったら成立するかなって考えるとやっぱり無理なんだよね。
 男女の愛の葛藤に、ホモセクシャルの人間の孤独を接ぎ木して見せる映画か、、。
 これがこれで、見る人間にとって意味のある物語として成立する事自体がなんだか切ないね。
 
 ただし、chikaの場合、そんな高尚な見方じゃなくて、そのマンマの興味本位でこの映画見てたんだけどさ(笑)。
  トニー・レオンがレスリー・チャンとやる時に、手に唾をつける場面なんかはフムフムなかなかって感じでさ、、でもメジャー映画じゃこれがギリギリかな。
 イグアスの滝かぁ、、結局、ファイは一人で見に行って、チャン(チャン・チェン)は南端の灯台でフェイの録音されなかったテープを聴くわけだ。
 この映画、同監督の「恋する惑星」から遠く離れているっていう評価があるみたいだけど、ファイがチェンの故郷の台北に帰ってからは、「恋する惑星」とまったく同じモードになってるじゃない?
 結局 ウォン・カーウァイはここに戻ってくるんじゃないかな。
「チャンの写真を一枚盗んだ。会おうと思えば又あえる。」ってね。

追記 ザッパの音ってこんなに聞き易かったけ。信じられないね、、。








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