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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

「今夜、すべてのバーで」

中島らも 

  らもさんへのしっかりした追悼文を書こうと決めてから随分時が経ってしまった。
 chikaは「ガラタの豚」と「水に似た感情」の2作品しか知らないので、せめてもう一作品と考えていた時に『今夜、すべてのバーで』はまぎれもなく傑作だという風野春樹さんの声に押され、本作品を読んでからにしようと思ったからだ。
 それになんとなく、らもさん死去に合わせて平積みにされた文庫本を手に取るのが躊躇われたこともある。
 初な文学少女じゃあるまいし、これは不思議な感覚だ。
 chikaの傾倒する作家はW村上氏だけど、もし彼らの死去のニュースを聞いても、らもさんの時のような「たじろぎ」はたぶんないだろうと思う。「たじろぎ」の正体はらもさんが放つ「身近さ」なのだろうと思う。
 勿論それは、らもさんが書いたものが「庶民的だった」などということでもないし、らもさんが人間の卑小さを好んで描いたからというわけでもない。
 人と人が向かい合った時に、相手の外見ではなく内面をどれだけ感知出来るかは、その人間の練度なのだと思うんだけれど、らもさんはそれを自分自身の「卑小さ」と「たくましさ」の間を行き来しながら、それに鋭い観察力を加えて練度を高めていった人なのではないかと思う。
 「同じ目の高さ」の表現という言葉があるが、らもさんの場合は「同じ内面を見る目の高さ」に加えて「タフさと繊細さ」が融合した表現者なのだ。chikaにとってその表現が身近に感じられないわけがない。
 「今夜、すべてのバーで」で、主人公の小島容と「担当医」赤河が霊安室で若くして病死した少年を挟んで喧嘩をする下りは、らもさん自身の「タフさと繊細さ」の葛藤を見ているようで本当に泣いてしまった。
 ・・そしてらもさんの「依存」への考察、、「依存」の正体が解明出来れば「人間存在」だって判るのだ。chikaもそう思う。
「今夜、すべてのバーで」を破滅と再生の物語だとして読む人もおられるようだけれど、残念ながらchikaには、らもさんが本気で再生を信じてこの小説を書き終えたととはとても思えない。
 というよりも小説としての体を成す為には、はさやかと容の洒落たツーショットで終わるしかなかったのではないかと思う。
 人は「再生」などしない。ただ「希望」や「夢」を時相応に紡ぎながら死んでいくだけだ。そんな簡単な理屈がわからないらもさんではないだろう。
 だからこそ「希望」や「夢」に、らもさんなりの彩りを添えて私たちに提示しようとするのだろう。それが「今夜、すべてのバーで」の正体ではなかったかと思う。
 らもさんの「明るい悩みの相談室」の舞台裏が、アルコール依存症と鬱病と躁病であったことは、何か奇跡的な必然さえ感じさせられるのだ。改めてご冥福を。


 
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