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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

ベニスに死す 映画レビュー50選(18)

 ルキノ・ヴィスコンティ監督

 ちりちりと焼け付くような思いで「ベニスに死す」を見終えた。
ヴィスコンティのカメラが、教授の視点で、彼が焦がれる少年の姿をズームで、あるいは望遠で捉え続ける。
  この映画、アッシェンバッハ教授のダッジォに対する「まなざし映画」とも言える。
 教授を撮影する時だけ、映画的なカメラワーク(意味を付加する)が入り、それが映画としての全体像を補完するようだ。
 教授に近づいてきたダッジォという名の少年の「美」の偶然。
 やがてそれは偶然ではなくなり、「おっとこれは恋なのかも」の世界に、、、、。
「でも相手は子どもなんだぞ、しかも男だ、、。」
 この辺りの教授の心の揺らぎを格調高く言い回す人もいるけれど、「好きになったらそれっきり」人間の心なんてそんなものだし、それでchikaは十分だと思う。
 「駄目だ、ここにいちゃどうにかなっちまう。でもあの子の誘いかけて来るような表情は一体なんなんだ。」
 後ろ髪引かれる思いでベニスを出る教授に「荷物発送」の手違い。
 「これは私に、ここにとどまれという天命なんだ。」
 このあたりの心理描写が、台詞などの補助的な手段がなくても、実に見事に描かれる。
 ダーク・ボガードの名演です。彼の表情の描写が凄く素直。
 <所で、ビョルン アンドレセンは裸より水着姿のほうが断然エロチックだね。特に横縞模様の奴ね、被服のエロス、、。>
 教授の奥さんとダッジォの風貌が似ているというのは、男が男に、しかも老人が少年に惚れる為の引き金でもあり免罪符でもあるんだろうね。
 そして、ダッジォにインスピレーションを得て作曲を始めた教授の前を、タオルで身体をくるんだダッジォが歩き去るシーンから、「ヴェニスに死す」は極めて映像的になっていくんだよね。
 これは彼ら二人が、同一画面に入るようになった(物語が始まった)という合図みたいなんだけど、、、。
 「ダッジォがピアノを弾いてるぞ。絶好のお近づきのチャンスじゃないか。だめだ。私にはできん。駄目だ。ああ、ダッジォ、そんな笑い方はよせ、その男を誘うような笑み、他の奴に向けるんじゃない。」と教授は自分の中に嫉妬の感覚があることを知る。
 「ああどうするんだ。私は本気になってる。」
 同時に映画はベニスに起こった疫病の蔓延を「悪意の楽隊」で不安を象徴的に現していく。
 「コレラの流行、2・3日中に交通が断たれます。」という情報を得た教授の前の無惨なヴェニスの風景も、「荒廃の美」って感じで、ダッジォの姿をつけ回す教授が徘徊する都市としてぴったりだ。
 恋の告白がしきれない心。若さの美と老醜の対比。
 回春を目指してピエロのようなメイクをした教授、そして教授の汗で額に流れる染め粉の向こうにいる「美」のダッジォ。
 だがダッジォは一人ではない。
 二人の少年達が教授の目の前で、幼い取っ組み合いのけんかをしてる。
 しかし教授にはそうは見えない。
 燃えさかる肉欲の妄想。自分の手が決して届かない所にその美はある。
 そして最後に教授はその「美」に手をさしのべながらコレラに命を落とす。
 本当に分かりやすい映画だよ。
 いいかたを帰れば素晴らしく表現力の高い映画だという事。
 少年と教授が接触したのは1度だけ、しかも、幻想の中で彼の頭に手を置いただけなんだよね。
 教授は現実には声さえも掛けていない。
 もし教授がダッジォに声を掛ける事に成功していたら、どうなっていたのか、、。
 あまり良い予想はできないなぁ。
 だからこそ教授も声を掛けなかったんだろうけど、、、「ベニスに死す」はそういった緊張の中で成立した物語なのかも知れないね。



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