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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

さらばわが愛 覇王別姫 映画レビュー50選(5)

 『「ブエノスアイレス」のレスリー・チャンより「さらばわが愛 覇王別姫」の彼の方が綺麗。』という噂を聞きつけてビデオを借りて観た。
 そんな不純な動機だから、見終わってから結構「重たい」ものがあったこの作品。
 第一、わたしゃ~、京劇のピィヒャラ~ドンチャンカンが余り好きではないというか、甲高い音や声を聞いていると頭が痛くなってくる質なのだ(笑)。
 でもこんな事、書いちゃ失礼なんだろうな。
 だって人間描写・社会批判、映像美どんな角度で観てもこの作品は「立派」なんだもの。
 でも書くぞ。ノーマルタイプのレビューや頭寒足熱ならぬ股間寒頭熱評論はchikaにゃ関係ないのだ。
 まず9歳の小豆子がとっても「エロス」だった。
 京劇の養成所に投げ込まれて「イジメ」に合いそうな小豆子を庇ってやる兄貴・小石頭と小豆子の関係が、とても「温く・ぬるく」ていいんだ。
 罰を受けた小石頭が凍えそうな外庭から帰って来た時に小豆子が上着を掛けてやるシーンや、二人が半裸のまま抱き合って眠るシーンなんかは、、下手な大人のラブシーンより余程、情感が溢れてて「オンナ・オトコ」してるのだ。
 で、小豆子の3段階変身の2番目の少年時代。
 これは、彼が精神的にも肉体的にも「女形」を強制的に自覚(何という倒錯した表現)させられる重要な部分なのだけれど、chikaは観ていてちょっとしんどかった。
 (痩せぎすの坊主頭の子役の少年が引き起こすイメージが個人的記憶を刺激してちょっと辛かった)
 でも、小豆子が養成所を脱走した先で、その時代の京劇のトップスターの技を目の前にして「涙」を流すシーンは、このだらけきった時代に生きているchikaには吃驚する程、新鮮だった。
 小豆子と一緒に抜け出した子どもが「あの人はここまでなるのに何回叩かれたのだろう。何回叩かれてもいい。僕もあんなふうになりたい。」と呟いたシーン、そしてそんな彼が折角、舞い戻った養成所で外で買ったサンザシを無理矢理食べてから首を吊るシーン、この二つは強く印象に残る。
 このエピソードは、映画の中でも成長した小豆子が京劇の花形女形・程蝶衣(レスリー・チャン)となった後も重要な要素として繰り返し登場してくるんだよ。
 そして同時にその要素こそが、第二次世界大戦、文化大革命の大きな時代のうねりの中で京劇俳優の彼らが、時代に翻弄されていく姿と密接に関わっていくのだ。
 でも、それはこの映画を観られた貴方が感じられれば良いこと。chikaには特に文化大革命あたりの捉え方が、勧善懲悪じみて少し単純すぎるような気がして馴染めなかったけど。
 問題はレスリー・チャンだよね。
 確かに美しい。
 彼の虞姫の京劇メイク姿も美しいし、程蝶衣の時の男性としての彼も美しい。
 でも、この美しさは、精神的に訓練され制御された「程蝶衣」を演じたからこそ出せる「美しさ」なのだろうと思った。
 「ブエノスアイレス」との決定的な差はそこにあるんだよね。
 もっとも、日本軍に捉えられた兄弟子の段小樓(チャン・フォンイー)を救出に出かける前の娼婦・菊仙(コン・リー)と恋の鞘当てを演じるレスリー・チャンは、オンナの「いけず」を見事に演じてニヤリとさせられる俳優振りだったけど、、、。
 彼ってやっぱり地力のある俳優さんなんだろうな、、。

PS 人間の本性が次々と露見していく設定になっているこの映画の文化革命時を中心にしたラスト近くの展開は、好き嫌いが別れるみたい。
 chikaには、この映画が、ある意味で段小樓を巡って菊仙と程蝶衣が愛憎を越えて人間的な関係を構築していくプロセスを大切にした映画だと思いたい部分があるのね。
 それがこのような展開にされると「しんどく」なるのだ。
 そしてその悲劇的な展開から十数年経って、再び段小樓と程蝶衣に覇王別姫を演じさせて「時の流れが全てを解決してくれる」と思わせておきながら、、あれはちょっとないよなぁ、、。


 


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