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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

トーク・トゥ・ハー 映画レビュー50選(13)

  ペドロ・アルモドバル監督の映画って、こんなに映像がきれいだっけ?というのが第一印象。
 看護士ベニグノのアリシアに対するケアのシーン(元の頃のやつね、後になると不気味さがボリュームアップ)だとか、女闘牛士リディア(ロサリオ・フローレス)の闘牛シーンや彼女がコスチュームを着るシーンなんかが実に綺麗でエロチック。
 その他でも、表面的なストーリー展開に欠かせない会話シーン以外では、抽象性と色彩豊かな映像美を両立させたシーンがてんこ盛りでとてもデリシャス。
 勿論、この映像の背景としてバレーだとか闘牛だとかスペイン独自の文化の豊穣さがあるわけなんだけどね。
 ククルクク・パロマを聞き入る聴衆シーンも、歌そのものが凄くて会場から離れざるを得ない二人目の主人公であるマルコ(ダリオ・グランディネッティ)の心理描写も、こう言った場面設定があるからこそ、全体の流れを壊さずに描けるのだと思う。
 マルコの事を二人目の主人公と書いたけれど、個人的にはこの映画の主人公はハビエル・カマラが演じるベニグノだって思ってる。
 ペドロ・アルモドバル監督の場合、いつもだったら、この映画に登場する二人の眠り姫(アリシアとリディア)の「オンナ」にテーマが終結しそうに見えるけれど、実際にはベニグノの内面にある「孤独な愛」に対置されるようにして「男と女」が語れれる仕組みになっているからだ。
 そういう意味では、ベニグノという存在を照射するために置かれたマルコの存在感に若干の無理があるような気がして残念だった。
 二人の女性との恋に破れたマルコが、ベニグノのアリシア(レオノール・ワトリング)に対する一人芝居の愛を見つめながら、やがて「ベニグノ、俺はお前なんだ」と呟くシーンがちょっとべたつくのだ。
 だってマルコはなんだかんだ言ってもモテる男なんだから。
 そんなマルコがキモ男君のベニグノに共感する筈ないわけで、、。(まっいいかぁ映画なんだから。)
 この映画、アカデミーのオリジナル脚本賞受賞に輝いたらしいけれど、確かに良くできていると思う。
 映画を見た感想の中で、「植物人間になった女性を追いかける為に専属の看護士にまでなった変態ストーカー野郎」であるベニグノを神聖視してるみたいで納得行かないというものがあるけれど、これも計算尽くだろうと思う。
 だってベニグノのアリシアに対する看護ぶりは元の頃は極めてノーマルに描かれているんだけど、徐々にその異常性が浮き上がってくるように展開してあるんだから、、。
 こういった人物の描き方の方が怖いと思うんだけど。
 それでいてベニグノのアリシアへのレイプや妊娠のシーンが巧妙に回避されているのは、監督が描きたかった着地点が、ベニグノの「異常性の真横」にあったからなのだと思うんだ。
 映画の中で劇中劇のような形で、ある男性が新開発のやせ薬を飲んで縮んでいき、あげくの果ては薬の開発者でもある恋人の性器に潜り込んで帰ってこなくなるという「縮みゆく恋人」が挿入されるんだけど、この劇中映画も唐突なように見えて隠喩的な役割を果たしているから見事だ。
 一見、単純な胎内回帰のイメージの喚起しか果たさないこの劇中映画は、ベニグノという男に置き換えてみると、眠れるアリシアを犯すという記号にすり替わるわけね。
 又、アリシアの元バレー教師によって語られる創作バレーの設定が「戦場で倒れた男の身体から離脱していく魂はオンナで、男から女が生まれるのよ。」だったりして、これもベニグノが精神分析医に潜在的なホモではないかと判断される事に奇妙に一致しているわけ。

 おそらく監督は男女差を超越した部分で、男と女の果てしない時には無常さえ感じさせる閉じられた円環を示したかったに違いないと思うのよね。
 果たしてマルコとアリシアはベニグノが死んだ後、ちゃっかり恋人同士として巡り会うんだから。

PS アリシア役を演じるレオノール・ワトリングが目覚めた状態で演技する場面はちょっぴりなんだけど、ベニグノに看護されるシーンでさらされる彼女の美しすぎる裸体で十分、、。
 その辺りも監督きっと意識してる思います、、さすがペドロ・アルモドバル。 

 




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