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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

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ぼくのバラ色の人生 映画レビュー50選(7)

ぼくのバラ色の人生
ma vie en Rose

監督:アラン・ベルリネール

  映画冒頭シーン、「女性のドレスのジッパーを上げる、上げる。嗅ぐ、キッスする、履く、飾る」が繰り返し映し出される。人生の中の日常的な様々な楽しみ。
 渾然としているけれどそんな細々した楽しみにさえ「男」や「女」の役割がある。
 時々、それが捻れたり、反転したり、昇華すると文化や芸術のレベルになる場合があると思えば、フェチという個人領域になったりもする。
 人が貨幣によってより社会的な人と人の関係を構築したように、ジェンダーに付随する人の行動様式も又、個人をより個人たらしめる感覚的役割を果たす。
 監督のアラン・ベルリネールという人は、そういう感覚(知覚)を人よりも強く持っているのだろう。
 恐らくこの映画の冒頭で、送られて来る信号はそういったジェンダーに関するものだ。
 その信号を受けてある人は「豊かな生活」の匂いを、ある人は「エロチックな感情」を、ある人は「これから起こる、甘美だけれど逃げられない惨劇」を予測する。
 引っ越して来た少年リュドヴィック(7歳)とジェローム少年との出会い。
 リュドヴィック少年の「女の子になったら結婚するの。」という言葉に、まだ彼がジェンダーを確定していない(されていない)年代にいる事と、すでに彼の内部では彼の「本質」が顕在化する事が集約されている。
 映画は始めファンタジー仕立てで、後はジェンダーの問題にどんどん傾斜していく。
「男か女かは神様が決める。僕の場合はX(染色体)が落ちちゃたんだよ。」という幼い言葉に「アンタは家族を破滅させるつもり」と口走らざるを得ない彼の母親。
 ゲイ・レズ、ホモセクシュアルに関する理解は、一般的に高まっているという幻想があるけれど、国や地域のそれぞれの温度差を差し引いても、それは幻想だろうと思う。
 個人はそのことを理解しても、「社会」はそれを理解しない(迫害する)事で成り立っているのだから。
 この映画、一気にそういった絶望的状況まで描写しないで、途中で何度か「息抜き」をさせてくれるのは、監督の粋な計らいというものだろうか。
 (そういえば、おばあちゃん役のエレーヌ・ヴァンサンは安全弁の役割なんだろうね。最後にリュドヴィック少年を反転させたような少女を、引っ越し先の隣家に配置するのはちょっとやりすぎだと思うけど、、そこまでしないとバランスが取れない現実の「重さ」があるって事なのかも。)
 映画の結末は「男の子の服を着るよ」と言うリュドヴィックに、「お前の好きに」と答え、「私たちの大事な息子」と抱きしめる両親で括られている。
 又、監督は映画の中で、リュドヴィックが通うことになった精神科医には「あなたが大人になったら、あなたが思っている事を周りの人々に判るように喋れるようになるわ。」とさり気なく語らせている。
 さぁ、、どうなんだろう。大人になったリュドヴィック少年はそんな「言葉」を持てただろうか。
『マ・ヴィ・アン・ローズ』人生はバラ色、、、、、。

追記
 ホント、久しぶりに真顔で語らなくちゃ、という気分で記事を書く。
 この映画、沢山の人々に見て欲しいと思う。特にこういった問題に「共感する側」の立場ではない人々にだ。
 リュドヴィック坊やを抱えた、お父さん。お母さん。家族、隣人たちに。
 この映画が提起するものを、安っぽいヒューマニズムと切り捨てないで欲しい。
 せめて「しょうがない奴」程度でもいい。
 違いを認める事をしてやって欲しい。迷惑だ。汚れる。不潔。とか勝手な思いこみはやめて欲しい。

 「私たちがどんな悪いことをしたの。」
 「そういうあんたらはどの程度の人間なんだ。」
 「人数が多いという事であんたらの優位性は保たれているに過ぎない。」と、そんな風にこの映画は声を荒げている訳ではない。
 むしろ複雑すぎる価値観が混じり込む事のない少年時代の頑固さをかりて、我々の中にある性を巡ってのすったもんだを描いているのだ。
 だからこその説得力が有る。
 chikaは、男が女を愛せない事、女が男を愛せない事は、生物学上では逸脱している事だと思っている。
 それは「歪」なのだ。
 でも、もう人間は、そんな単純な「生物学上の生き物」でいられる時代をとっくの昔に失っている。
 私たちは「エデンの園」から追放されて久しいのだから、この地で追放された者として上手く生きていく術を見つけ、それをお互いに分かち合う方が大事なのだ。
 
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ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ 映画レビュー50選(6)

 性転換の手術に失敗した主人公の歌う歌詞が「アレの長さが6インチから5インチ減って残りは怒りの1インチ」、、、こうやって文章にするだけでも監督・脚本・出演すべてをこなしたジョン・キャメロン・ミッチェルの才能がわかる。
 演劇や映画の脚本に、人間の完全体であったとされる雌雄同体的イメージ、「つまり(男・男)(女・女)(男・女)がゼウスによって二つに引き裂かれて現在の愛が始まった。」とするテーマを引っ張って来る事は、そう珍しい事じゃない。
 けれどそこから畳みかけるように「これ以上、神によって引き裂かれたら、目が一つ、腕が一本、脚が一本で生きなくちゃならない。(僕)を否定すれば、僕は破滅する。」って言葉を凄い勢いで打ち出してくる所がこの人の才能なのだろう。
 映像的には驚くような斬新さはないにせよ、充分に美術的な空間を銀幕に作り出せる能力をもった人のようだ。
 しかしそれを全面に出さずに、あくまで映像を、ミュージカルと物語の進行に絡めていく姿勢を見せるのはこの監督が舞台人だからだろうか。
 勿論、その姿勢はこの映画において大きく成功している。
 ただ、主人公ヘドウィグのかりそめの夫イツハクを演じるミリアム・ショアが本物の女性であることが微妙な「ずれ」となって映画の最後に現れていたような気がする。
 chikaは最初、このイツハクが「男になりたい女」なのだと思っていた。
 それにしてはイツハクが隠れてヘドウィグのウィッグを被りたそうにしているシーンなどが矛盾しているなと、、。  正式なところで言うと、脚本上でイツハクは、潜在的に女装者にあこがれている男性という設定らしい。
 それでも最後にイツハクがヘドウィッグと袂を分けようとする時「もう疲れたんだよ。お前も本当は疲れているんだろう。」という台詞をヘドウィッグに吐くシーンがあるのだが、これなどは「私はもう男の格好(生き方)をしているのに疲れた。お前も女の格好じゃ疲れるだろう。」と読み替える方がスムースのように思える。
(実際、その台詞の後にひげ面のイツハクが、グラマナスな美女に変身するシーンがある。これなど念願の夢が叶って女装美人になったというよりも、イツハクが女性に回帰したら実はこんなに綺麗だったという感じに見える。)
 その他、少年時代のヘドウィグ(ハンセル)が父親に犯された事、青年期の女装とホモセクシュアルの関連が曖昧な事、母親が自ら進んで東ドイツに移り住んだのに、息子のハンセルがドイツから脱出する為に性転換手術を必要とした時、病院を紹介してやったりと、よく考えると説明不足の部分がたくさんある。
 勿論、映画の方はそれらを含んでも、充分に面白い。
 東西の冷戦や「性」にまつわる興味深い色々なエピソードを全て、おおまかな部分で辻褄が合えばいいやと言う感じで、ヘドウィグという人物を通じて書き出していく手法が爽快だ。
 この手法が観客に受け入れられるのは、それらの各エピソードに共通する監督の「ストレートな想い」が巧く伝わってくるからだろう。
 つまりその共通項とは「ロック」な「愛の起源」を求める心。
 しかしまあコーカソイド系の顔立ちって女装にホントに映えるのねぇ。
 それにハリウッドというか、向こうのショウビジネス世界のメーキャップ技術って、ため息がでるほど凄い。
 青年時代のヘドウィグってまだいかにも女装者っていう感じなんだけど、トミー(主人公の失われたカタワレ)と出会う頃の彼は、体型は別にしてほとんど「綺麗」といっても良いくらいなんだから。
 で土台は青年時代の彼と同じな訳で、、つまりメイクアップ技術だけで、意識的に「綺麗」の年代進化グラデーションを作り出せるということなんだね。(羨ましい、、。)
 でも、ヘドウィッグが自分のステージを隠れてみているトミーに顔の汗を拭いたハンドタオルを投げ渡すシーンには思わず苦笑しちゃった。
 だってハンドタオルにヘドウィックの顔が厚塗りしたファンデ・口紅、マスカラで転写されているんだもの。
 この辺のジョーク感覚がオカマというかドラァグクィーンのりなんだよね。
 同じように「今日も鬘を被ってメイクアップ・ルンルン」っていう歌も楽しいよ。
、、、でも「やがて悲しき」なんだけどね。 、、だからこそショウビズなんだよ。

PS 映画の中で、ヘドウィック率いるバンドが演奏するときの環境映像仕立てで見せるアニメが素敵です。
 ちょっと前に日本でもイラスト界に「ヘタウマ」っていうジャンルが確定したけど、これには「ヘタウマ」よりもうちょっと素朴なアート性を感じるなあ。
 制作はエミリー・ハブリー。
 まあ考えてみればこのアニメと合うって事自体が、「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」がナイスな映画だという証明だと思うけど。










さらばわが愛 覇王別姫 映画レビュー50選(5)

 『「ブエノスアイレス」のレスリー・チャンより「さらばわが愛 覇王別姫」の彼の方が綺麗。』という噂を聞きつけてビデオを借りて観た。
 そんな不純な動機だから、見終わってから結構「重たい」ものがあったこの作品。
 第一、わたしゃ~、京劇のピィヒャラ~ドンチャンカンが余り好きではないというか、甲高い音や声を聞いていると頭が痛くなってくる質なのだ(笑)。
 でもこんな事、書いちゃ失礼なんだろうな。
 だって人間描写・社会批判、映像美どんな角度で観てもこの作品は「立派」なんだもの。
 でも書くぞ。ノーマルタイプのレビューや頭寒足熱ならぬ股間寒頭熱評論はchikaにゃ関係ないのだ。
 まず9歳の小豆子がとっても「エロス」だった。
 京劇の養成所に投げ込まれて「イジメ」に合いそうな小豆子を庇ってやる兄貴・小石頭と小豆子の関係が、とても「温く・ぬるく」ていいんだ。
 罰を受けた小石頭が凍えそうな外庭から帰って来た時に小豆子が上着を掛けてやるシーンや、二人が半裸のまま抱き合って眠るシーンなんかは、、下手な大人のラブシーンより余程、情感が溢れてて「オンナ・オトコ」してるのだ。
 で、小豆子の3段階変身の2番目の少年時代。
 これは、彼が精神的にも肉体的にも「女形」を強制的に自覚(何という倒錯した表現)させられる重要な部分なのだけれど、chikaは観ていてちょっとしんどかった。
 (痩せぎすの坊主頭の子役の少年が引き起こすイメージが個人的記憶を刺激してちょっと辛かった)
 でも、小豆子が養成所を脱走した先で、その時代の京劇のトップスターの技を目の前にして「涙」を流すシーンは、このだらけきった時代に生きているchikaには吃驚する程、新鮮だった。
 小豆子と一緒に抜け出した子どもが「あの人はここまでなるのに何回叩かれたのだろう。何回叩かれてもいい。僕もあんなふうになりたい。」と呟いたシーン、そしてそんな彼が折角、舞い戻った養成所で外で買ったサンザシを無理矢理食べてから首を吊るシーン、この二つは強く印象に残る。
 このエピソードは、映画の中でも成長した小豆子が京劇の花形女形・程蝶衣(レスリー・チャン)となった後も重要な要素として繰り返し登場してくるんだよ。
 そして同時にその要素こそが、第二次世界大戦、文化大革命の大きな時代のうねりの中で京劇俳優の彼らが、時代に翻弄されていく姿と密接に関わっていくのだ。
 でも、それはこの映画を観られた貴方が感じられれば良いこと。chikaには特に文化大革命あたりの捉え方が、勧善懲悪じみて少し単純すぎるような気がして馴染めなかったけど。
 問題はレスリー・チャンだよね。
 確かに美しい。
 彼の虞姫の京劇メイク姿も美しいし、程蝶衣の時の男性としての彼も美しい。
 でも、この美しさは、精神的に訓練され制御された「程蝶衣」を演じたからこそ出せる「美しさ」なのだろうと思った。
 「ブエノスアイレス」との決定的な差はそこにあるんだよね。
 もっとも、日本軍に捉えられた兄弟子の段小樓(チャン・フォンイー)を救出に出かける前の娼婦・菊仙(コン・リー)と恋の鞘当てを演じるレスリー・チャンは、オンナの「いけず」を見事に演じてニヤリとさせられる俳優振りだったけど、、、。
 彼ってやっぱり地力のある俳優さんなんだろうな、、。

PS 人間の本性が次々と露見していく設定になっているこの映画の文化革命時を中心にしたラスト近くの展開は、好き嫌いが別れるみたい。
 chikaには、この映画が、ある意味で段小樓を巡って菊仙と程蝶衣が愛憎を越えて人間的な関係を構築していくプロセスを大切にした映画だと思いたい部分があるのね。
 それがこのような展開にされると「しんどく」なるのだ。
 そしてその悲劇的な展開から十数年経って、再び段小樓と程蝶衣に覇王別姫を演じさせて「時の流れが全てを解決してくれる」と思わせておきながら、、あれはちょっとないよなぁ、、。


 



ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ 映画レビュー50選(4)

c301d000_142.jpg  「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」が、そのまんまの音楽ドキュメンタリー映画だと気づかず、「この材料で映画が一本とれる。すごいもんだな。ヴィム・ヴェンダース。」と最初からとぼけた勘違いをしてた私。
 でもコンパイ・セグンドの「恋心を胸に抱き、東部の街からハバナへ向かう若者の想いを歌った曲チャン・チャンがバックで流れる冒頭では、まだロードムービーが始まるのではないのかというお馬鹿な期待を捨てない私でもあった。
 ハバナの海岸縁を走る道路に波頭が砕け散り、そこを古いアメ車が通り抜けていったり、、、。
 キューバの路上の犬は、なんだか勢いを感じさせる風格があるなぁとか、いたる所でヴィム・ヴェンダースの映像的意志を嗅ぎ取ろうとしたり。
 して、本当のこの映画の実体は「ハバナで二枚目のアルバムを録音していたライから、一度来てみないか、と電話があって、ほとんど事前準備もなく少数のスタッフと現地に行った」とヴェンダース監督が振り返るような制作体制だったようだ。
 後半、老音楽家達の奔放で魅力あふれるアムステルダムのコンサートや、ニューヨーク・カーネギーホールでの歴史的なステージの模様も描いているが、これも撮影開始時には予定されていなかったことだという。
 確かに、部分的には平凡な音楽ドキュメンタリーに過ぎない映像カットも多いのだけれど、全体を見ればやはりヴィム・ヴェンダース映画になっているという不思議な完成度を持つ映画だ。
 この感覚が見る側に生まれる原因は「撮影に際して唯一の基本としたのは、音楽それ自体に語らせること。私の考えを示すのではなく、彼ら自身の姿を追い、語ってもらった。素晴らしいミュージシャンたちをより多くの人に紹介したかった」というヴィム・ヴェンダースの眼差しと、何にもまして、この老音楽家達自身の存在感にあるのだと思う。
 「チャン・チャン」を始め「恋」の歌が数多く登場するが、それらをこの老人達が歌い奏でても、違和感もなんのいやらしさも感じさせない。むしろ若者や熟年の世代が歌うより純粋で熱っぽく、なにか恋を超えて違うものを歌っているような気にさせさせてくれるのである。
 (私は老人が「老人」であるが故に自動的に「人生の達人」であったり「高尚な存在」であるなどとは思っていない。老人はそういうチャンスを多く得た存在ではあるが、、念のため。)
 イブライム・フェレールが、インタビューの中で彼自身の信仰を語る場面があって、それが弱者の立場の可能性を開く「ものもらいの神・聖ラサロ」だという部分で、彼の素朴さを強く感じた。
 又、映画の後半に「歌では何も救われないと思えたときがあって暫く歌から遠ざかった」という彼の独白に、彼の「歌」の練度を感じさせられもした。
 「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」ではミュージシャン9名のインタビューが織り込まれるが、(この辺りの演出や撮影はライ・クーダーそのもの)彼らがいかに音楽と共に生きたのかがよくわかる。
 この映画はそんな彼らと「音」が主人公なのである。

 ビートルズが一時インド音楽に傾倒したのは有名だけど、ライ・クーダはキューバミュージックに身を寄せた訳だ。
 ブルースから始まって彼のボトルネック奏法(ラウーって楽器は面白いね。ブルージーなハープシコードギターかな。)って感じを考えると、キューバミュージックに合流して行く事はすごく自然なことだろうなと思う。
 でも本編のライ・クーダが老音楽家達に見せる気遣い、やさしさ・共感は半端じゃないね。

 繊細で地味だがパワーに満ちているキューバミュージックの音・音。
 そしてヴィム・ヴェンダースの渋くて綺麗な映像。
ビデオで鑑賞ならヘッドホンとアルコールの入ったグラスをお忘れ無く、、、。







ボーイズ・ドント・クライ 映画レビュー50選(3)

boysdont.jpg   男が女にアプローチする。男(きめてやる)「何処に住んでいるように見える?」女(うっとりし興奮した口調で)「どこか美しいところの人。」
 確かにそうなんだ。彼(ブランドン・ティーナ)は「どこか美しい場所に住む人」だった。
 一人の女性が、自分を「男」だと思い「女」に惚れる。
 だが「レズだ」とは認めない。
 生物学上「女性」と分類される人間が「女性」を愛したならばそれはレズビアンと呼ばれる。
 けれどその女性は自分が「女性の身体」に間違ってはいってしまった「男」だと思っているからレズビアンではないのだ。
 結局の所、性の境目は何処にあるのだろう。それは宇宙船みたいに内部が発光するアメ車の中でのカーセックスにあるのかも知れない。
 あるいは、闇の中で追跡してくるパトカーがもうもうと立ち上る埃の中で幻想的に見えるほどの道の上にあり、しかもそれは、極度の緊張と興奮の中でライトを消して疾走し真っ暗な破滅へむかっていく男や女達のイメージと融合してしまうものなのかも知れない。
 しかし、この映画幾つかの象徴的なシーンを除いては、「性の問題」は寒々しく無軌道な現実の積み重ねの中で語られ、最後にはお定まりの悲劇が待ち受けている。
「彼らが望むそうあるべき姿を伝えるのよ。」
 そしてブランドンの存在は受け入れられず、否定される。最後までブランドンの肯定者であったラナさえ、ブランドンの些細なヘヤースタイルの差でブランドンの性別を認知してしまうシーンが痛々しい。
 だがこの映画、性同一性障害(体の性別とこころの性別との間に相違が生じ、何らかの 「障害」 を感じ、自分が別の性に属していると確信している状態)のテーマに真正面から切り込んだものではないのだ。
 題材的にはそうできたのだろうが、実際には色々な見方・感じ方が出来る映画だ。
 それともう一つ、この映画が単なる告発映画に成らずに、違う側面を持ち得たのはヒラリー・スワンク(ブランドン・ティーナ)という女優を得た事が大きいだろうと思う。
 もし違うキャステングなら一言一句同じものを撮り上げたとしても又、違った印象を持つ映画になったに違いない。
 それはこの作品を撮ったのが単なる一映画監督であり、一運動家ではなかったという査証でもあろう。
 この映画、よく見ていると、ヒラリー・スワンクとクロエ・セヴィニー(ラナ)が並んでいるシーンが随分スタイリッシュだったり、ピーター・サースガード(ジョン)、ブレンダン・セクストン三世(トム)らの描写も彼らの狂気や暴力を端的に描きこそするけれども、過剰なリアリティを目指さず、実は「汚い部分」が一つもないことに気づく。
 私にはこの監督が、性同一性障害という題材を扱いながら、映画を上に上げた感覚を織り交ぜて描き出す事につて、批判的に見てしまう時と、そうでない時があるのだ。
 私のその揺らぎは、明らかにキンバリー・ピアース監督がブランドン・ティーナを「男装の女性」として我々に提示した上でこの映画を撮っているという事から起こっている。
 その構造の上で性同一性障害という課題がどう咀嚼されているのだろうかという疑問を感じるのだ。
 映画の中では、ブランドンの正体が、ジョン達にまだばれていない時点でも、彼らを中心にして、男性と女性の性的な緊張関係を思わせる多分にエロチックな描写がよく登場する。
 例えば「埃のない高速道路」でブランドンの背後から彼を焚きつけるジョン、その時の二人の表情などがそうだ。
 こんな場面を見ていると監督自体がブランドン・ティーナの性のファンタジーを楽しみ、それを密かに我々に提示しているようにさえ見えるのだ。
 つまりブランドン以外の全ての人間は(私たち観客も含めて)彼の「性」を自分の都合のよいものとして見ている事になる。
 初めジョンは男としてのブランドンの裏側に「女」を読みとっていたに違いないし、ラナに至ってはブランドンの正体を知った後でも己のファンタジーに固執し続けるのである。
 しかし、周囲の人間の欲望や生活のゆがみを吸い付ける事で、魅力的であったブランドンの「両性」も、ある臨界点を越えると一気に「現実」に引き落とされてしまう。
 この映画の場合では「レイプ」シーンでそれが露になるのだが、、。
 でもこのシーンは本当に性同一性障害の「社会的・外的障害」の一端を描いているのだろうか。
 先にも書いたようにこの映画は、そういった問題を扱うための告発映画ではないし、単独で充分魅力的な映画である。
 いや十分に「魅力的」だからこそ私は混乱してしまうのである。
 皆さんはアダルトビデオシリーズに「レイプ物」といった分野があるのをご存じだろうか、、。
 私は、「現実と想像領域の差」といった内容や、モラルについて言及したい訳ではない。
 私は、私たちはすべて「内なるファンタジー」に突き動かされて現実を生きているのではないかという気がしている。
 そういう立場からみるとこの映画は酷く混乱していて、その混乱自体が「魅力」的に見えるのである。






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