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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

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マルホランド・ドライブ 映画レビュー50選(17)

監督・脚本:デビッド・リンチ
 
  純粋な感想からまず一言。ナオミ・ワッツの演技力が凄い。
 ナオミ・ワッツはこの映画の中で田舎からハリウッドにやって来た女優志望の女ベティを演じる。
 ベティが初めてのオーディションで見せる演技力が回りの映画スタッフを驚嘆させるシーンがある。
 それをナオミ・ワッツが、演技の巧い天才的な素人として、又、巧く演じるのである。
 オーディションはベティが初老の男に絡んでいくラブシーンなのだが、相手の男は「おいおい、そこまで入れ込んだら本気になっちゃうぜ。」て感じで一瞬引いてしまう程濃厚なエロチシズムを発揮するのだ。
 その後、ベティは気だての優しい純朴な女性に一瞬にして戻ってしまう。つまりナオミ・ワッツはそういった複雑な「演じわけ」や「落差」が表現できる女優なのである。
 更にナオミ・ワッツは、映画前半での素直で優しいベティから、記憶喪失のリタが自分の正体に気づきかかけてからの、神経質で嫉妬深いベティまで、まるで別人かと思えるような天才的演技を見せてくれる。
 リンチ監督は、本作に限らず、こう言った、めくるめく入れ子細工的世界が好きだが、、このナオミ・ワッツの演技力は、まさにそんなリンチワールドにうってつけなのではないかと思う。
 勿論、作品の構成からみれば、煌びやかなハリウッド女優イメージを体現したルックスを持つローラ・エレナ・ハリングの存在も非常に重要であり、彼女がリンチワールドにいつも漂う「濃密な官能」の密度をより高めているのも忘れてはならない。
 そしてこの二人の女優を配しての、ベティとリタの初夜シーンは、まさにリンチ監督が描く理想の物語内「レズシーン」ではなかったかと思う。
 リンチ作品としては、全く違うものを描き出したと言われるヒューマンドラマ「ストレイト・ストーリー」の次作に当たる、この「マルホランド」は、元の難解幻惑路線に戻ったリンチ作品として位置づけられるらしい。
 しかし、確かにこの映画、難解ではあるが「ストレイト・ストーリー」で見せた人間表現のストレートさ(ギャグじゃないよ)は、この作品にも充分に現れていると思う。
 単純に昔のリンチに戻った訳ではないのだ。
 自分の家に闖入していた記憶喪失のリタに対して異様に優しいベティが、レズビアンである事が判り、更に映画後半に全開になるリンチワールドで「夢落ち仕かけ」が観客に見え始める頃から、ベティの愛と苦悩が実に「ストレート」に伝わってくるのだ。
 chikaなんてクラブ・シレンシオで女性歌手の悲恋の歌を聞きながら泣いている二人を見てシーンときたもの。
 リンチ監督が作り出す迷宮は、その迷宮ぶりによって、いくら生の感情を作品の中にインサートしてもそれが直接的に観客に届くことはなかったと思う(ワイルド・アット・ハートでさえ)。
 それが「ストレイト」をきっかけにして、しかも全体のリンチらしさも損なわず映し出せるようになってきていると思う。
 これは、chikaのように、リンチ作品に対しては、抽象画を鑑賞するスタンスのごとく「理屈を問わずして、ただ感じた事だけを大切にしよう」と決めた人間にも非常に助かる変化である。
 だからと言って「謎解き」の楽しさというか、その迷宮ぶりがリンチ映画の魅力である事は、この「マルホランド」から失われている訳ではない。
 Web上の日本語サイトにも随分、「マルホランド解明」があるので一度覗かれたらどうかと思う。
 こういった「解明」があった後でも、リンチ監督が作り上げた世界の色艶は失われず、逆に光を増すのだからリンチは、やっぱり凄い「映画」作家なのである。

 ”マルホランド・ドライブ"とは、ロサンゼルス北部の山を横断する実在の通りの名前なのだと言う。
 若者たちが夜中に猛スピードでレースをする場所としても有名らしい。
 曲がりくねった暗く危険な道だが、その眼下にはハリウッドのきらびやかな街並みが一望できるのは、実際に映画の中でも何度も描写されている。
 その道で起こった事故から始まるこの物語、ある意味、マルホランド・ドライブの存在自体がこの映画の簡略図でもあるようだ。
 すこしだけリンチ監督は観客に優しくなっている。
 chikaのような人間がこの映画を見ても、映画の前半が「夢」であり、後半に現実がある事が判る。
 それに、なんとこの映画の主力テーマが、超越した彼岸にあるのではなく「ハリウッド世界のレズ恋愛に重ねたドロドロ愛憎」にある事も判るのである。
 chikaは、リンチ監督のこんな「変化」を大いに歓迎している。

PS それにしてもハリウッドのメイク技術は凄い、、。演技力もあるんだろうけど、ナオミ・ワッツの変貌ぶりなんて、凄いもの。



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ドーベルマン 映画レビュー50選(16)

 フランス既存映画への“挑戦状”ヤン・クーネン監督の「ドーベルマン」。
 公開当時は国内でも結構騒がれていた記憶がある。
 勿論「ドーベルマン」観ました。
 ドラッグ・クイーンのソニアが、狂気警視クリスチーニに家庭まで踏み込まれて精神的にズタズタにされるシーンにシンクロしてしまって妙な胸苦しさを覚えたり、、。
 でもバイオレンスやアクションシーンなら日本のVシネマ辺りでもそこそこやるし、斬新なカメラワークも1時間以上連続で駆使できる訳もないし。
 と、まあchikaの当時の評価は△○だったんですね。
 それでも心の中には何かが引っかかっている。数年すれば観たことも忘れてしまうような映画が多い中で「引っ掛かって」いるのは、この映画に「何か」があるからなんですね。
 リーダーのドーベルマンことヤン・ルパントレックは生まれながらの強盗。「生まれながらの強盗」っていうのは比喩じゃなくて文字通りの意味。
 そして彼の仲間は、薬に溺れ常に殺人の衝動に駆られているムス、斧を振り回す犬好きの巨漢ピットブル、聖書の中に手榴弾を携帯する神父(アッベ)、同性愛者で女装好きのドラッグクイーン・ソニア、廃車回収業者でありマシンガンの使い手レオ、ヤンの恋人で爆弾の扱いに長けた聾唖の美女ナット、狙撃の名手にしてナットの兄であるマニュがいる。
 これが一種のコミニュティを形成してるわけなんですね。
 まあ普通の視点で映画を撮ればそれこそ殲滅すべき兇悪集団って所なんだけど、ここに彼らの狂気を数段上回る純粋狂気たるクリスチーニ(しかも国家権力を背景にしてる)を配置する事で、違う要素を映画の中に作り上げているわけです。
 で、後日、ビデオレンタルで見つけたのがこの「ドーベルマン・エクスプレス」。
 このエクスプレス、ただのメイキングビデオかと思ったら、ヤン・クーネン監督の小中編映画が収録されているのですね。
 「ブルーム・レース」「ヴィブロボーイ」「キャプテンX」「赤ずきん」これだけ観ると、ヤン・クーネン監督の輪郭が何となく見えて来る。
 ヤン・クーネンの表現は日本のヤング・アダルトコミックの輪郭と同じだと思いこんでいたけれど、少し違うみたい。
 特に「赤ずきん」を観ていると(私のお気に入りです。)その感が強くなる。
 この監督の切ないまでの「暴力」への思い入れは一体何なんだろうと思う。
もし、レンタル店の棚にこれがあったら、騙されたと思って観ても損はないと思いますよ。



月光の囁き 映画レビュー50選(15)

監督: 塩田明彦
  フェチという「変態」がテーマなのに、良いお酒の如く楽しんだ後、快い余韻がある映画。
 変な言い方なんだけど淡々と展開する「透明な変態映画」なのです。
 「変態」さんには、ある種の免罪符的な酔いをもたらす映画でもあります。
 この世界に余り関係のない人(そんな人いるのかなぁ~)には、ちょっとカーブのかかった青春純愛映画に見える筈。
  大林宣彦監督の映画かツルゲーネフの「初恋」を思わせるような北原紗月(つぐみ)と日高拓也(水橋研二)の恋が始まって、やがて拓也が犯した「変態」への咎としてほろ苦い破局が待っている映画なのかと思いきや、この二人、微妙なハッピーエンドを迎えるのです。

 夕暮れの誰もいない教室、冗談半分で差し込んだ日高の鍵が、あこがれの人である紗月のロッカーを偶然に開けた。そのロッカーの中から、紗月のブルマーを取り出し、顔に押しあて「紗月」を吸い込み恍惚に震える拓也、、、。
 そして時が経ち、今までは「あこがれ」に過ぎなかった紗月からの告白によって、自分とは相思相愛の関係だった事を知る拓也。風邪で休んだ拓也の家に、高校を休んで訪れる紗月。「風邪が移る。」「かまへん。」紗月自らが望んだSEX。
 その紗月と結ばれた拓也は「その夜、紗月の分身(フェテッシュ)達を燃やした。」。

 でもそれで収まらないのが「変態」の業です。
 後半、拓也に「神様が僕をこう生んだ」と言わせるシーンがあるんですが、正にその通り「変態」は決して治りません。
 そんな拓也を知って「正常側」にいる紗月は、拓也に「変態」の一言を投げつけます。
 逆に「誰にも言えない俺の姿を知ってくれている紗月」あるいは紗月と言う名の「女」のフェテッシュを追い求める拓也。
 それに対して、拓也の「試せない愛」を試そうとする紗月は、やがて「普通の女子高校生」の性意識から逸脱し始めます。
 この逸脱を紗月のサディズムの発露と見るのか、その他のものとして受け取るのかはこの映画を見る者の自由なんですが。
 でも、この映画どうしてここまで透明でリリカルなんでしょう。水橋研二の眼が綺麗だからか?つぐみのキャラクターがそうさせるのか?
 足フェチの場面だって相当にエロだけどAVのそれとは対局の位置にあるみたい(なにアップで撮るかどうかの違いだって?)。
 で、ふと思ったのは、この二人の年齢設定が上ならどうなるのかしらという事、、。
 すべての事に、おずおずとそして純粋に余裕もなく手探りで生きていた時代。
 その時代の中では「恋」が際だっているだろうけど、勿論、個人の思いでは変えられない「変態」という性だって含まれているんだと思います。
 だからこそこの映画は透明なのかも知れない。
 ラストに流れるスピッツの「運命の人」は、この物語が永遠のファンタジーである事を感じさせます。
 塩田明彦監督作品には、男たちの気を惹くためにギプスを装着する美女が登場する映画もあります。
 映画の題名はそのまんまの「ギプス」。
 話は、偽装ギプスの女・環と、なんとなくMっけが混じったレズぽい関係に陥ってしまった和子が、二人の関係を逆転させようと匿名で仕掛けた危険なゲームを中心に展開します。
 そのゲームとは、男を殺害してしまった環を和子が陰で強請ること。
 所が環は逆に、脅迫状に書かれた要求額500万の手配を和子に手伝わせようとするんですね。
 それに対して和子は、強請っているのは「実は自分だ」とも言えず、環の誘惑に落ちて、金の工面の為にギプスをはめて男たちを誘う羽目に。
 この映画の面白さは、和子が最初、普通の女性として描かれていることですね。
 和子は、たまたま出会ったに過ぎない美しいけれど一風変わった雰囲気を持った環に、ほんの少しだけ興味を感じてつき合い始めるわけなんですが、環のギプスが偽装だということを知った(さらにそれを心の中で受け入れてしまった)時点で、二人の関係性が抜き差しならないものになってしまうという部分が肝なんです。
 人は、通常(普通)でないものや、出来事を「異常」だと認識して、それを自分の心の中から破棄する能力を持っているわけですが、時々(いや往々にして)、「異常」さそのものに魅入られてしまう時があるんですね。
 北原紗月と日高拓也の「フェチ」を挟んだ恋愛。
 環と和子の「フェチ」を挟んだ支配被支配的レズ関係。
 面白いですね。さて『フェチは「ひとり」、SMは「ふたり」』と言えますでしょうか?



 

6月の蛇 映画レビュー50選(14)


 今日は「6月の蛇」のご紹介。

 『スカートの下にパンティを付ける事を禁じて、電動ヴァイブを挿入させたまま街を歩かせる。
 やがて女は自ら「恥辱」を反転させながら、今までにない快楽の波に飲み込まれていく・・だがその女は貞淑な人妻であり、、。』
  これなど、SM小説の世界では古典的とさえ言えるシチュエーションで、AVでも、素人さんのご夫婦でもこれをなぞったりする事は珍しくない。
 塚本監督がこの映画の脚本を書いた時だって、そう苦労はしていない筈だ。
 第一、携帯電話で主人公りん子に送られる言葉の中身なんて「八百屋で(オナニー用の)キュウリとなすびを一本ずつ買って来い。」だの「電動こけし」だの、スポーツ新聞連載のエロ小説レベルでしかないのだから。
  要するに脚本の骨子となるものは、日本男性なら誰でも考えつく俗っぽい性的ファンタジーであり、映画を作る上で、巷のAV制作の困難さを上回るものがあったとも思えない。
 それでも「6月の蛇」は、映画として良質である。
 ・・これほど身を硬くしながら映画を見続けたのは久しぶりの事だ。

 何日も雨が降り続く六月の東京。
 りん子は心と健康の電話相談室に勤めている人妻だ。
 潔癖症の夫とはセックスレス状態にある。しかしお互いの愛情が薄れているわけではない。
 ある日、りん子は職場で一本の相談電話を受け取る。
 りん子はその相手を励まし、自殺を食い止めることができた。
 だがそれをきっかけにその男からりん子へのスト-カー行為が始まる。
 彼女の自慰行為を盗み撮りした写真が送られてきたのだ。
 その日からりん子の恥辱と恐怖の日々が始まるのだった。

 「6月の蛇」は、主人公りん子に猥褻行為を強要するストーカー男にのみに焦点をあてるのなら、エロチックサスペンスドラマという事になるのだろうが、この映画を見ることで感じる緊張感は、一般的なサスペンスドラマから得られるような意識の表面を走るだけの軽いものではない。
 もっと生理的で、根元的な部分に迫ってくるものなのだ。
 それは村上春樹氏の「ねじまき鳥クロニクル」の根底に流れているものに近い。
 もっともこのバイブレーションは「6月の蛇」に限らず、「鉄男」をはじめとする塚本作品のすべてに(妖怪ハンターは除外)通底するものなのだが、「6月の蛇」ではそれが際だっているのである。
 このパワーの増大は、「6月の蛇」の心理的SM行為を際だたせたストーリー展開にも助けられていると思うが、なによりも塚本監督のスクリーン上に描く「絵」の変化が大きいように思える。
 言ってはなんだが、塚本作品から最も縁遠いものは「お洒落」である・・それが「6月の蛇」では黒沢あすかの起用と、スクリーンを覆う青黒い画面と雨の都市を描いて、思いがけずスタイリッシュに仕上がっている。
 どしゃぶりの雨が降りつづける世界。
 紫陽花の花とナメクジ、側溝に流れる濁流と浴室の天井の丸いガラス窓をたたき続ける雨。
 ショートカットの若妻の頬から噴出す玉のような汗。
 今までのドロドロとしたエネルギーに溢れた泥絵のような作風の見栄えが、ほんの少し、しかも洗練という逆のベクトルに変わっただけで、より塚本監督の情念が息づいて見えるとは不思議なものだ。
 ただしこの変化は、黒沢あすかという女優の起用があってこその話だろうと思う。
 塚本監督が「妻の役は下品なことをしてもらうので、上品な女優でないと無残なことになると思って黒沢さんにお願いした。」と言った通りに、いやそれ以上の効果を黒沢あすかはこの映画に与えているのだ。
 「ボーイッシュなヘヤースタイルに黒縁眼鏡。ホントは綺麗なくせに、ださく見せる演出がわざとらしくて嫌。」とか思うのは最初のうちだけ。
 後は、ぐいぐいと黒沢あすかが演じるりん子の「オンナの普通さ」、業のありように魅せられてしまう。
 ラスト近く、りん子が夫と夕食を採る場面の愛らしさと、降りしきる雨の中でカメラフラッシュに晒されながらの吠えるようなオナニー姿の対比は、圧倒的で感動さえ覚える。
 この黒沢あすかがあってこそ「最終的にりん子と夫は新しいお互いの関係を再構築出来たのか、それとも、、?」と言った感じのあの微妙にずれていく不思議なエンディングの感覚が得られるのだろう。 

 いずれにしてもこの映画の勝者は、スクリーンの中ではりん子であり、スクリーンの外では黒沢あすかと言えるだろう。
  勿論、それは、このキャストと絵作りで「6月の蛇」を撮り終えた塚本監督の才能があってこその話だが。
 ただ後半に差し込まれる殺人クラブ等の妙なエピソードや、イメージ画像は蛇足だったかなと思う。
 ・・この人の今までの映画って、この蛇足部分で全部出来てるんような気がするんだけど(笑)。
  最後まで疑問なのはコラムニストの神足裕司を、過剰なまでの潔癖性の夫に配したこと。
  どちらかというと容貌魁偉な神足裕司のイメージからは潔癖性の夫は連想できないし、神足裕司の夫とストーカー役である塚本晋也の「うん、この消臭薬飲んでるのがわたしらの共通点ですよね。」といった会話もまるで二人に似合っていない。
 ただこの二人(特に神足裕司)のおかげで、りん子こと黒沢あすかが輝いて見えた事は確かなのだが。







トーク・トゥ・ハー 映画レビュー50選(13)

  ペドロ・アルモドバル監督の映画って、こんなに映像がきれいだっけ?というのが第一印象。
 看護士ベニグノのアリシアに対するケアのシーン(元の頃のやつね、後になると不気味さがボリュームアップ)だとか、女闘牛士リディア(ロサリオ・フローレス)の闘牛シーンや彼女がコスチュームを着るシーンなんかが実に綺麗でエロチック。
 その他でも、表面的なストーリー展開に欠かせない会話シーン以外では、抽象性と色彩豊かな映像美を両立させたシーンがてんこ盛りでとてもデリシャス。
 勿論、この映像の背景としてバレーだとか闘牛だとかスペイン独自の文化の豊穣さがあるわけなんだけどね。
 ククルクク・パロマを聞き入る聴衆シーンも、歌そのものが凄くて会場から離れざるを得ない二人目の主人公であるマルコ(ダリオ・グランディネッティ)の心理描写も、こう言った場面設定があるからこそ、全体の流れを壊さずに描けるのだと思う。
 マルコの事を二人目の主人公と書いたけれど、個人的にはこの映画の主人公はハビエル・カマラが演じるベニグノだって思ってる。
 ペドロ・アルモドバル監督の場合、いつもだったら、この映画に登場する二人の眠り姫(アリシアとリディア)の「オンナ」にテーマが終結しそうに見えるけれど、実際にはベニグノの内面にある「孤独な愛」に対置されるようにして「男と女」が語れれる仕組みになっているからだ。
 そういう意味では、ベニグノという存在を照射するために置かれたマルコの存在感に若干の無理があるような気がして残念だった。
 二人の女性との恋に破れたマルコが、ベニグノのアリシア(レオノール・ワトリング)に対する一人芝居の愛を見つめながら、やがて「ベニグノ、俺はお前なんだ」と呟くシーンがちょっとべたつくのだ。
 だってマルコはなんだかんだ言ってもモテる男なんだから。
 そんなマルコがキモ男君のベニグノに共感する筈ないわけで、、。(まっいいかぁ映画なんだから。)
 この映画、アカデミーのオリジナル脚本賞受賞に輝いたらしいけれど、確かに良くできていると思う。
 映画を見た感想の中で、「植物人間になった女性を追いかける為に専属の看護士にまでなった変態ストーカー野郎」であるベニグノを神聖視してるみたいで納得行かないというものがあるけれど、これも計算尽くだろうと思う。
 だってベニグノのアリシアに対する看護ぶりは元の頃は極めてノーマルに描かれているんだけど、徐々にその異常性が浮き上がってくるように展開してあるんだから、、。
 こういった人物の描き方の方が怖いと思うんだけど。
 それでいてベニグノのアリシアへのレイプや妊娠のシーンが巧妙に回避されているのは、監督が描きたかった着地点が、ベニグノの「異常性の真横」にあったからなのだと思うんだ。
 映画の中で劇中劇のような形で、ある男性が新開発のやせ薬を飲んで縮んでいき、あげくの果ては薬の開発者でもある恋人の性器に潜り込んで帰ってこなくなるという「縮みゆく恋人」が挿入されるんだけど、この劇中映画も唐突なように見えて隠喩的な役割を果たしているから見事だ。
 一見、単純な胎内回帰のイメージの喚起しか果たさないこの劇中映画は、ベニグノという男に置き換えてみると、眠れるアリシアを犯すという記号にすり替わるわけね。
 又、アリシアの元バレー教師によって語られる創作バレーの設定が「戦場で倒れた男の身体から離脱していく魂はオンナで、男から女が生まれるのよ。」だったりして、これもベニグノが精神分析医に潜在的なホモではないかと判断される事に奇妙に一致しているわけ。

 おそらく監督は男女差を超越した部分で、男と女の果てしない時には無常さえ感じさせる閉じられた円環を示したかったに違いないと思うのよね。
 果たしてマルコとアリシアはベニグノが死んだ後、ちゃっかり恋人同士として巡り会うんだから。

PS アリシア役を演じるレオノール・ワトリングが目覚めた状態で演技する場面はちょっぴりなんだけど、ベニグノに看護されるシーンでさらされる彼女の美しすぎる裸体で十分、、。
 その辺りも監督きっと意識してる思います、、さすがペドロ・アルモドバル。 

 





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