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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

THE MASK CLUB

 村上 龍 

 本書が「ダヴィンチ」に連載されていた頃の装丁というか紙面構成は酷いモノで、デザインばかりが全面に出て、肝心の文章が全く読めなかった。
 誰がこういう紙面構成を考えたのか判らないが、昔からこういうスタイルがファンション雑誌などにまま見受けられて、どうもそれがスタイリッシュだと思っている節がある。 しかし「ダヴィンチ」のような書籍に特化した雑誌でこんな最低の事をし続けているのは、作家にも読者にも侮辱的な行為だとchikaは断じたい。
 まあそれも「村上龍」というスタイリッシュな作家性故の事なのかも知れないが、、。
 いつも思うけれど、村上龍はとても饒舌な時代の語り部だ。
 本書にも出てくる「この国の男達はとてもナィーブになってしまった」などという台詞は、あまりにも判りやすくて、読み手にとっては当たり前のように思うかも知れないけれど、実際にはちょっとやそっとでは出てくる言葉ではない。
 小説の前半、物語の進行役が「死者」に設定されている事が新味のように言われているが、これは椎名誠が既にやっている。
 このアイデアより村上龍の特質はサイケデリックなビジュアルにある。
「蝶の背に乗って」の章あたりのミクロの視点は、美しいグラビアのある科学雑誌に欲情しているようでとても魅力的だ。
 SF映画の名作に人間がミクロ化して人体に潜り込む「ミクロの決死圏」という映画があったが、あれにエロスを感じる人は、当然本書でも同じ感覚を味わう事だろう。
 そして村上龍はSMやビザールシーンの描写が本当に巧い。
 それって、作家自身がこの世界にかなり日常的に接近していないと書けない肌触りも含めてのほめ言葉なんだけど、そんな事、村上龍にすれば余計なお世話かも知れないね。
 そういった現場の匂いの描写に加えて、「マゾヒストは基本的に生命を崇拝するものだ。宗教などと違って死を崇拝したりしない。」とかいう台詞をかぶせてくる所が作家としての技なんだよね。
「男の顔を足の裏で踏んで、初めて、その足が自分の肉体であると気付く」という台詞を「可愛そうな」SM嬢に吐かせてみたり、、まあここまで行くとちょっとやりすぎかと思うけど。
「考えてみれば当たり前の事だが、人が他人を支配できる訳がない。」という内部思考が同じ主人公から聞こえ出す辺りからSM嬢=村上龍になっちゃって興ざめだけど、これはどんな作家だってそうなんだ。
 でも村上龍の場合は、それが妙にエロチックで違和感がないのがいいんだよね。
(勿論、この辺りが感覚的に嫌いな人は、これが原因で村上龍を受け付けられないんだろうけど。)
 おそらく男性作家である村上龍は最初「死者」の「男」の視点で、物語を書いているはずで、それが途中でSM嬢にトランスしてしまう。
 で最後に、SM嬢として「おい、近藤、聞こえるか。消えろ。」と死者の男を虫けらみたいに吹き飛ばしてしまうのだ。
(これは「イビサ」と同じパターン。いつどうやってこの発想が村上龍の中に生まれたんだろう。この部分については興味津々。)
 作家村上龍の精神分析をする積もりはないけれど、この作品に彼自身が「社会性」云々をテーマとして付加するのは少し偽善を感じてあまり好ましい事とは思えない。(と言うか無理があると思う。)
 日本の男性の失墜ぶりを女性の視点で巧く描いた彼の作品はほかにもあるしね。
chikaはこれを純粋にSM小説として読む方がずっと面白いような気がするんだけど、、。


PS 栞のラバーマスクプレイの描写は淡泊だったけど、「あったあった」って感じですっごくリアル。ラバーフェチからするとこういうラバーの小道具的は使い方はちょとなーって思うけど、確かに感覚遮断と羞恥プレィにラバーマスクはぴったりだものね。






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