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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

チャッピー

この映画、日本での劇場公開時に「あるシーン」がカットされてるって映画ファンが怒り出して大騒ぎになってました。
 「表現の自由だ!不当弾圧だ!」見たいな感じのノリでしたが、実際は一つの映画でも今は視聴に様々な視聴アプローチがあるので「その場面が未来永劫絶対に見ることが出来ない」なんて事はありません。だから意地悪に、しかも社会への批判感覚なしに言うと「見ようと思えば見れる」んです。
 それに当のニール・ブロムカンプ監督も日本業界の所業について激しく抗議したって話も聞こえてこず、まあその程度の話題でした。
 でカットされたシーンっていうのは、この映画の主人公ロボットであるチャッピーのライバルロボット(そんな単純じゃないですが)が、チャッピーの義理のオジサン・「アメリカ」の胴体を真っ二つにジョッキンした挙げ句、その上半身を壁に向かって蹴りつけるという、短いけれど、それなりにドキンとさせられる場面です。
 理屈的には、このシーンがカットされる事によって、この映画の大きなテーマである人工知能や「人間とは何なのか」という命題の内「残虐性と人間性の関係」なんかへの訴求力が低下する!断じて許さん!みたいな感じですかね。
 chika的にはこの騒ぎ、あまりピンと来てませんでした。
 正直あのシーンあった方が良いに決まってるけど、でもカットしちゃったから作品がグダグダになったかと思うとそうでもないような気がするし、まあ日本で映画かけて興行する人達のセンスって、その商業的な部分も含めて、あまりスマートじゃないなとは思うんですが。

 それと一番、大きいのはニール・ブロムカンプ監督って実はそんなに社会派な監督じゃないような気がするんですよね。
 「第9地区」とか、この作品とか見てると、「表面は1級の娯楽作品だけれど、そこにはしっかりした現実社会批判がある」みたいな部分ね、それは確かな事なんだけど、chikaはそればっかりじゃないだろって思うんですよね。
 一言で言い表すと「異形への憧れ、異形への変容願望」、それがニール・ブロムカンプ監督作品の核になっていると思うんですよ。
 「第9地区」の場合は、MNUの職員であるヴィカスのエビ人間化が顕著にそれを表しているし、「エリジウム」では主人公のマックスが強化外骨格を神経系と直結する手術を受けたりする。
「チャッピー」の場合は、最後の最後になってディオン・ウィルソンがロボットに転生、で、締めくくりがチャッピーのママこと、既に死亡したヨーランディを再生させる為のロボットボディを作るシーンで終了。
 「チャッピー」を途中まで見てると「今回のニール・ブロムカンプ監督って、凄くまともなアプローチで人工知能の問題とか、人間の犯罪とか残虐性の問題を描いてるなぁ、チャッピーも可愛らしく描けてるし」みたいな感じなのに、最後にはディオン・ウィルソンが瀕死の重傷になって、ちゃっかりチャッピーに強制逆フランケンシュタイン施術されちゃうし、えーっ、なんでわざわざこんな展開にしなくちゃなんないの!自分で脚本書いてるんだから他に幾らでも違う展開方法あるでしょ!って感じなんですよね。
 それにロボットにされて生き返ったディオン・ウィルソンなんかもその事に全然ショック受けてなくて、その後もスッゴク通常運転してるわけ、いくら人工知能作りのプロだからってそれはないでしょ(笑)。
 つまりニール・ブロムカンプ監督はこういうのを映画で撮りたいんですよ。
 それが思想的に見るとどういうことを表しているのか?とか考えると凄く面白いんですけどね。
 取りあえず今回、ニール・ブロムカンプ監督の作品表現の根本テーマは「異形への憧れ、異形への変容願望」であるというchika流定義で締めくくって置くことに。では。


チャッピー アンレイテッド・バージョン

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