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ゲヘヘのchika郎、笑かしなやもう 2

チカオアーカイブ 過去にご馳走様して来た映画・ドラマ・本への感謝の念を込めて

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蠱惑 アルーア  リチャード・コールダー

リチャード・コールダーの楽しみ

 どうして、この人の事を忘れていたんだろう?私の創作の最も偉大なる近似値、リチャード・コールダー。
 それはおそらく彼が上品すぎるから?そして彼の第二作の作品を読まないのは私の嫉妬心から?
 以下、彼の作品の中で、ガイノイド泥棒である貧相な東洋の小悪党モスキートが、一皮剥いて人造美少女に化ける(元の姿に戻る?)シーンをご紹介します。
 この耽美、素敵です。モスキートを抱きしめたくなるから。
 暑さにひび割れたドレツサーの上に、クリームと、ドーランと、パウダーと、軟膏と、皮膚軟化剤を並べた。 それから女物の服をそろえ、昼間の皮膚を脱ぎ捨てて、ドールに変身した。 鏡の中の分身がウインクをよこした。 この妹は繊細な子供っぽい顔だちで、まだ頬のあたりにおさな太りが残っている。 そこにツッパリ風の感じをつけたしているのは、ボブヘァと、三百月形のいたずらっぽい目、ふたつの黒い太陽のように燃える目だ。 ちょっぴりとがった唇は、欲望と侮蔑の両方を伝えている。 そして肌は-人造女特有のしみひとつない、磨きぬかれた肌は-見るからに合成物めいている。 きょうの衣装?豹の毛皮模様のボディ・ストッキングと、十五センチの錐刀。 もちろん性器は(いつも厄介だが)スコッチテーブで固定し、恥丘のふくらみに見せかける。 ほほえんで、犬歯をチェックした。完壁。 ベッドに寝そべって、フィジヵル・カルチャーの雑誌を拾い読みした。 ラジオが、ブワッ、ブワッとまわる無関心な扇風機相手に、恋の喪失と発見の物語をささやいている。



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「独白するユニバーサル横メルカトル」 平山夢明

 chikaが中学生になりたての頃に、仲間内で残酷ものブームってゆーのがあって、(その頃のchikaのお友達ってオタク坊やばっかだから)「本当は怖い」系の話で盛り上がって次に残酷処刑の本やら秘密ビデオの貸し回しだとか・・やってましたね。
 その中で一番印象に残ってて思わずオナニーしちゃったのが、一番マニアックな友人から回ってきた秘密ビデオ。
 秘密って、、まあ単純に、親に黙ってレンタルした成人向けビデオを友人がダビングしたやつなんだけどね(笑)。
 タイトルは今でも鮮明に覚えてて、「ギニーピッグ4 ピーターの悪魔の女医さん」ってゆーやつ。
 1989年連続幼女誘拐で逮捕された宮崎勤がこのビデオシリーズを所有していたことから、猟奇殺人者に影響を与えたビデオとして、槍玉に上げられた奴です。その結果、ギニー・ピッグ・シリーズは暫く発禁処分くらってたんです。

 「ピーターの悪魔の女医さん」の内容って、お察しの通りあのピーターさんが変態女医を演じるグログロビデオなんだけど、友人達の中ではピーターがどうのってユー事じゃなくって「昔一世を風靡した(ギニーピッグ)シリーズを俺は全部そろえているんだぜ。」みたいなノリだったんですね。
 で密かに心に病を持ったchikaだけが、そーゆー部分からかけ離れた所でこのビデオを楽しんでいたわけです。
 特にピーターが黒のラバーワンピースを着てつけ爪に仕込まれたメスで血まみれになりながら男の皮膚を剥がしていくシーンは何度も何度も見ましたよ。
 身体にピッタリしたラバーのせいでピーターの胸の盛り上がりがパッドだって判って余計に興奮しちゃって、、、あのヘヤースタイルいいなぁ、ウィッグ?ああ、、あのドレスの股間部分のラバーの下には僕と同じおちんちんがあるんだぁ。
 おちんちんも、おちんちんがこすれてるゴムの裏地も舐めてみたいよー、、僕もあんなラバー着たい。あんなウィッグ欲しい!僕も早くピーターみたいになりたい!!とか妄想が膨らんでそりゃもう大変でした(笑)。
 で、この秘密ビデオを返すとき「でどうやった?」と問う友人に対して「(マンホールの中の人魚)の方が好きやな。やっぱし日野日出志は凄いやん。」とか逃げを打ったりして(笑)。
 こういった類のビデオや小説には、極端な人体破壊や変形が登場するんですが、今思うと、グロに惹かれる自分の意識下では、ピーターは男の身体を破壊され、女(とゆーよりオンナに模した生き物)に変形された存在だったりして。
 少なくとも自分の変身のベースには「性同一性障害」みたいな傾向より、はるかにこー言った願望とゆーか、衝動に身をゆだねている部分があったのかなぁと分析しちゃったりします。

・・・前置きがかなり長かったみたいですね。それでは早速、この短編集の中では違う意味で面白かった「すさまじき熱帯」の感想から。

 もっとも違う面白さと言っても「すさまじき熱帯」も他の短編以上に充分グロで、ここで言いたいのはこの短編にプラスアルファされてる「筒井康隆流のドライブ感」なんですね。
 主人公達が訪れる熱帯の現地語を、耳解釈でやると訳の分からない日本語になって、それを意識的に作者が多用するので、読者の方は、音楽的な不思議な感覚が発生するわけです。
 もちろんその音楽はクラッシックではない(笑)、多分、下手くそな素人の田舎ラップ。ストーリーは多くの方が仰るように『地獄の黙示録』が下敷き、でも主人公の父、ドブロクが王国に潜り込んだ後半、chika的変貌を遂げるのは作者の悪趣味なお遊び(笑)。
 とにかく印象に残るのはありとあらゆるモノがカタストロフィに向かって騒々しくグロテスクに疾走していく世界と、それを唖然と見つめるしかない私(読者)という緊張関係が、見事にこの一編では下手くそな田舎ラップのリズムと共に確保されているという点です。
 読者に「これは小説の作り事の世界で、本当の私は安全な世界に生きている」みたいな気持ちが生まれる隙も許さず、不条理に埋め尽くされた因果と共に、呆れる程のスピードで世界は腐り自らを破壊していく様を見せつけていくこの筆力。
 自分は絶対に傍観者である筈なんだけど、いつかこの不条理な破壊世界の生け贄になってしまうのではないかという不安さえ感じさせてくれます。

 その他、個人的に気に入ってしまったのが「怪物のような顔の女と溶けた時計のような頭の男」。この短編は、平山夢明のある意味、潔い鬼畜世界にSMの哲学的転倒を持ち込んだ一編。
 とある女(ココ)の始末を請け負ったサイコな男が、彼女に凌遅処死を施すんだけど、いつもならギャアギャアと凄慘な悲鳴をあげる相手が、この女の場合、妙にアッサリしてて、件の拷問師はすっかりペースを乱されてしまう。
 でも、どうにかしてココをメタメタにしてやろうと次第に拷問をエスカレートさせていく拷問師なんだけど、彼がもがけばもがくほど「場」の主導権はココの方が握っちゃうわけ。
 足の指を全部切り落とされて代わりに5寸釘を打ち込まれそれを足の爪代わりにされるような状況の中で、ココが拷問師を追い詰めていくのは何故か?
 まあ「サドだけどマゾ、マゾだけどサドなSM女王様chika」みたいなSMの転倒が、彼らの間に拷問を通じて繰り広げられるわけですね。
 でもこーゆー話って鬼畜の所作に女性が絡んでくるから単にグログロにならなくてすむわけで、それを思うと「女性の生理」ってすっごく羨ましいなぁと思いましたね、、。
 なんたって幾ら頑張っても男の血には、「命」と深い部分で繋がっていくイメージがなくて結局、戦争とかの単純な暴力や消費しかないって感じだから。







関連 映像作品




「いま、殺りにゆきます」

製作年:     2012年
製作国:     日本
収録時間:     86分
出演者:     森田涼花 桃瀬美咲 肘井美佳 菅野麻由
監督:     千葉誠治
脚本:     千葉誠治
原作:     平山夢明


ホームレスから詩集を買った女子高生の奈緒。以来、そのホームレスが詩集を売る場所が、日を追うごとに彼女の自宅に近づいてくるようになり…。ほか、都会の美少女とたちに襲いかかる日常の恐怖を描いた全5編オムニバス・ホラー。



THE MASK CLUB

 村上 龍 

 本書が「ダヴィンチ」に連載されていた頃の装丁というか紙面構成は酷いモノで、デザインばかりが全面に出て、肝心の文章が全く読めなかった。
 誰がこういう紙面構成を考えたのか判らないが、昔からこういうスタイルがファンション雑誌などにまま見受けられて、どうもそれがスタイリッシュだと思っている節がある。 しかし「ダヴィンチ」のような書籍に特化した雑誌でこんな最低の事をし続けているのは、作家にも読者にも侮辱的な行為だとchikaは断じたい。
 まあそれも「村上龍」というスタイリッシュな作家性故の事なのかも知れないが、、。
 いつも思うけれど、村上龍はとても饒舌な時代の語り部だ。
 本書にも出てくる「この国の男達はとてもナィーブになってしまった」などという台詞は、あまりにも判りやすくて、読み手にとっては当たり前のように思うかも知れないけれど、実際にはちょっとやそっとでは出てくる言葉ではない。
 小説の前半、物語の進行役が「死者」に設定されている事が新味のように言われているが、これは椎名誠が既にやっている。
 このアイデアより村上龍の特質はサイケデリックなビジュアルにある。
「蝶の背に乗って」の章あたりのミクロの視点は、美しいグラビアのある科学雑誌に欲情しているようでとても魅力的だ。
 SF映画の名作に人間がミクロ化して人体に潜り込む「ミクロの決死圏」という映画があったが、あれにエロスを感じる人は、当然本書でも同じ感覚を味わう事だろう。
 そして村上龍はSMやビザールシーンの描写が本当に巧い。
 それって、作家自身がこの世界にかなり日常的に接近していないと書けない肌触りも含めてのほめ言葉なんだけど、そんな事、村上龍にすれば余計なお世話かも知れないね。
 そういった現場の匂いの描写に加えて、「マゾヒストは基本的に生命を崇拝するものだ。宗教などと違って死を崇拝したりしない。」とかいう台詞をかぶせてくる所が作家としての技なんだよね。
「男の顔を足の裏で踏んで、初めて、その足が自分の肉体であると気付く」という台詞を「可愛そうな」SM嬢に吐かせてみたり、、まあここまで行くとちょっとやりすぎかと思うけど。
「考えてみれば当たり前の事だが、人が他人を支配できる訳がない。」という内部思考が同じ主人公から聞こえ出す辺りからSM嬢=村上龍になっちゃって興ざめだけど、これはどんな作家だってそうなんだ。
 でも村上龍の場合は、それが妙にエロチックで違和感がないのがいいんだよね。
(勿論、この辺りが感覚的に嫌いな人は、これが原因で村上龍を受け付けられないんだろうけど。)
 おそらく男性作家である村上龍は最初「死者」の「男」の視点で、物語を書いているはずで、それが途中でSM嬢にトランスしてしまう。
 で最後に、SM嬢として「おい、近藤、聞こえるか。消えろ。」と死者の男を虫けらみたいに吹き飛ばしてしまうのだ。
(これは「イビサ」と同じパターン。いつどうやってこの発想が村上龍の中に生まれたんだろう。この部分については興味津々。)
 作家村上龍の精神分析をする積もりはないけれど、この作品に彼自身が「社会性」云々をテーマとして付加するのは少し偽善を感じてあまり好ましい事とは思えない。(と言うか無理があると思う。)
 日本の男性の失墜ぶりを女性の視点で巧く描いた彼の作品はほかにもあるしね。
chikaはこれを純粋にSM小説として読む方がずっと面白いような気がするんだけど、、。


PS 栞のラバーマスクプレイの描写は淡泊だったけど、「あったあった」って感じですっごくリアル。ラバーフェチからするとこういうラバーの小道具的は使い方はちょとなーって思うけど、確かに感覚遮断と羞恥プレィにラバーマスクはぴったりだものね。







「今夜、すべてのバーで」

中島らも 

  らもさんへのしっかりした追悼文を書こうと決めてから随分時が経ってしまった。
 chikaは「ガラタの豚」と「水に似た感情」の2作品しか知らないので、せめてもう一作品と考えていた時に『今夜、すべてのバーで』はまぎれもなく傑作だという風野春樹さんの声に押され、本作品を読んでからにしようと思ったからだ。
 それになんとなく、らもさん死去に合わせて平積みにされた文庫本を手に取るのが躊躇われたこともある。
 初な文学少女じゃあるまいし、これは不思議な感覚だ。
 chikaの傾倒する作家はW村上氏だけど、もし彼らの死去のニュースを聞いても、らもさんの時のような「たじろぎ」はたぶんないだろうと思う。「たじろぎ」の正体はらもさんが放つ「身近さ」なのだろうと思う。
 勿論それは、らもさんが書いたものが「庶民的だった」などということでもないし、らもさんが人間の卑小さを好んで描いたからというわけでもない。
 人と人が向かい合った時に、相手の外見ではなく内面をどれだけ感知出来るかは、その人間の練度なのだと思うんだけれど、らもさんはそれを自分自身の「卑小さ」と「たくましさ」の間を行き来しながら、それに鋭い観察力を加えて練度を高めていった人なのではないかと思う。
 「同じ目の高さ」の表現という言葉があるが、らもさんの場合は「同じ内面を見る目の高さ」に加えて「タフさと繊細さ」が融合した表現者なのだ。chikaにとってその表現が身近に感じられないわけがない。
 「今夜、すべてのバーで」で、主人公の小島容と「担当医」赤河が霊安室で若くして病死した少年を挟んで喧嘩をする下りは、らもさん自身の「タフさと繊細さ」の葛藤を見ているようで本当に泣いてしまった。
 ・・そしてらもさんの「依存」への考察、、「依存」の正体が解明出来れば「人間存在」だって判るのだ。chikaもそう思う。
「今夜、すべてのバーで」を破滅と再生の物語だとして読む人もおられるようだけれど、残念ながらchikaには、らもさんが本気で再生を信じてこの小説を書き終えたととはとても思えない。
 というよりも小説としての体を成す為には、はさやかと容の洒落たツーショットで終わるしかなかったのではないかと思う。
 人は「再生」などしない。ただ「希望」や「夢」を時相応に紡ぎながら死んでいくだけだ。そんな簡単な理屈がわからないらもさんではないだろう。
 だからこそ「希望」や「夢」に、らもさんなりの彩りを添えて私たちに提示しようとするのだろう。それが「今夜、すべてのバーで」の正体ではなかったかと思う。
 らもさんの「明るい悩みの相談室」の舞台裏が、アルコール依存症と鬱病と躁病であったことは、何か奇跡的な必然さえ感じさせられるのだ。改めてご冥福を。


 

「ストロベリーナイト」に登場する「エフ」への個人的考察

「衛星軌道上のボンデージガール。その絶対的孤独と断絶的快楽。」

snapchika.jpg 「グロいですよ~食事のときには読まない方がいいかも」って倶楽部の子に言われて貸してもらった本を読了。
 その子自体、倶楽部じゃ主にMやってるんだけど、結構、プレイにバリエーションがある子で、いっちゃなんだけど引いた目でみりゃ、医療系含めて相当グロなプレイもあるんだよね。
 でも本人は至って平気みたいなんだけど。
 まあ見方を変えれば、chikaのラバー好きもこの子からみたら相当ヘンだからそのこの所はおあいこ(笑)。
 その子が「グロい」ってゆーんだからどんなのかって読み始めたのが誉田哲也の「ストロベリーナイト」。

 ストロベリーナイトとゆータイトルと、文庫本のオシャレなカバー写真、それにこの本を貸してくれたイカにも今風な倶楽部の子の顔を交互に思い出して、読んだらカロリーオフのコーラみたいだと困るなぁ、と、(笑)。  
 コーラは毒水だからコーラなんであってさ。
 で「ストロベリーナイト」は、のっけからヤク中の鬼畜親が登場して児童性的虐待コースの導入、、まあ最近の刑事物だと全然珍しくないんだけど、性的虐待にスカトロが入ってくるのは珍しいちゅーかchikaはこれが苦手なのだ。

 しかもここで登場するスカトロは、汚物を身体になすり付けたり軽く飲食するようなライトなものじゃなくて暴力系、、余計に読むのが嫌なわけで、途中で止めようと思ったんだけど人から借りた本って降りられないのよね。
 「読んでどうでした?」とか聞かれちゃうとね。 「ああ、あれね、ムニャムニャ、、。」なんて、若いのに本を読んでくれる希少な後輩相手に誤魔化せないじゃない。
 結局、この冒頭の殺人鬼の独白で繰り広げられるグロシーンは、殺人鬼の親殺しと自宅放火で幕を閉じたのでなんとか乗り切ったって感じ。
 この殺人鬼は、後日「エフ」という名前で小説の主人公警視庁捜査一課警部補姫川玲子の前に再登場するんだけど、エフのコスチュームが街の浮浪老人が何処かで拾ってきたレザーのつなぎで、その武器が百円ショップで売っているどぎつい色のちゃちなカッターナイフってゆーのが、なかなかナイス。
 ちょっとネタバレぽいけどこの小説を映画化するならエフの役は堀北真希がいいって倶楽部の子が言ってたんだけど、、まあ、そんな感じ。
 でもベッドに縛り付けた女性の乳房を釘の一杯突き出たバットでなぎ払うってゆーのは堀北真希には無理かも。
 このエフ、最初は男と思わせておいて最後に実は堀北真希属性の人で更には主人公の絶体絶命の危機を救っちゃったりするドンでん返しに必然性はあったんだろうか?と小説読み終わってからも未だに腑に落ちないchikaなのだ。
 あんまりも極悪非道なヒールを作ってしまったので、作者が無意識のうちにバランスを取ってしまったのではないだろうかって今は想像してるんだけど(笑)。
 だって初めのままのエフの姿が「現実モデル」だとする小説って、書き手が悪人に見えるし(笑)。

 「ストロベリーナイト」に登場するエフは、自分自身の忌まわしい存在性を否定する為に、乳房を自ら切除しちゃうわけなんだけど、chikaからすると性同一性障害への理解より、このエフの情動の方がよく理解できちゃったりする。
 性同一性障害が、本来あるべき自分の為に、現在の肉体のありように突き当たってしまうのに対して、chikaのそれは「本来の自分の有り様を否定する為」に、肉体を改変するわけで。
 ある意味、「未来がない病」なんだよね。
(でもその代わり刹那的な快楽には恵まれるけど)
 そういった諸々を含めて、chikaにとってエフは結構、魅力的な登場人物でした。





        

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